余語勝久  生没年未詳

 

(よごかつひさ)

【古代・中世】

実名は『寛政重修諸家譜』では勝久と記すが、同時代史料には勝直、勝盛と記すものもある。衣長興寺に「織田信長画像」を寄進した余語正勝の弟。織田信長に仕え衣城主であった。余語氏は与語氏とも記し、先祖は近江国余語荘の出とされる。勝久は愛知郡御器所の出身で、御器所周辺を領していた佐久間氏の与力、もしくはその配下と推測され、佐久間氏が高橋地域を治めた関係で、勝久ら一族も同地域に入部したと思われる。天正8(1580)年勝久は信長から安土に屋敷を拝領されており、この頃には信長直臣であった。勝久が衣城主となった時期は不明であるが、同年佐久間信盛・信栄親子が信長から譴責・追放されるので、その頃と考えられる。天正13年に勝久は衣城を退城するが、詳細は不明。その直後に作成された『織田信雄分限帳』には、「余語久兵衛」は高橋郡に2900貫文を知行すると記されている。この久兵衛は息子の伊成の可能性もある。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻600ページ