(よしだかつちか)
【古代・中世】
豊臣秀次の家臣で尾張支配の実務を担当。はじめ久左衛門、秀次関白就任後修理亮を名乗る。実名は好寛ともいうが、秀次家臣時の文書では勝親と自署する。美濃国の出身で豊臣秀吉、その後秀次に仕え、秀次家臣内で「美濃衆」といわれる。天正18(1590)年秀次が尾張に就封時には、清須城下町への材木調達や同町支配に関わった。秀次関白就任後も尾張支配の実務担当者として、同20年同国の太閤検地では検地奉行を務めた。また、賀茂郡永源寺(現永澤寺)の敷地年貢の免除、碧海郡今川村や本地村の年貢率などを定めている。その他に、蔵入地代官、尾張国堤奉行、伏見城築城の材木調達奉行など、秀次家臣として幅広い活躍をした。秀次事件後は結城秀康に仕え、越前国で1万4000石の知行を得る。慶長6(1601)年、同国北ノ庄城の改築では普請奉行を務める。慶長20年大坂夏の陣で、徳川家康の軍令に違反をし、咎を受けた藩主松平忠直の身代わりに天満川で自殺をした。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻614ページ