(よしだけ)
【近世】
近世挙母南町の商人。吉田家は、吉田屋・藤屋の屋号で、綿・木綿や米を扱い、樹木町には出店を有し肥物を扱っていた。同家が扱った繰綿は、根羽村(現長野県根羽村)・宮田村(現長野県宮田村)・飯田町などの信濃商人へ中馬荷で運ばれ売却されていたほか、西尾商人との取引もあったようである。吉田喜兵衛は、挙母繰綿仲間の行司を務めるとともに、町年寄など挙母町の町役人を歴任したが、元治元(1864)年11月の挙母町市日再興にあたり挙母藩から町年寄格・諸商物取締役市掛に任命され物価の取り締まりにあたり、明治2(1869)年正月には藩への献金により藩領内外において帯刀が許される自他帯刀御免となっている。その後、同家は、明治29年に製糸業に進出し、挙母町に吉田製糸場を設立したが、同40年の糸価暴落により製糸業から撤退し、翌年藤屋合資会社(藤屋呉服店)を開業している。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻187・349・753ページ