(よしだはん)
【近世】
三河国吉田城に藩庁を置いた藩。吉田(豊橋)は交通の要衝であったため、名門の譜代大名が入封した。慶長6(1601)年、竹谷松平家の松平家清が知行3万石で入封し、慶長8年の江戸幕府開府に伴い立藩された。慶長17年、松平忠清が無嗣断絶すると、代わって三河国深溝より深溝松平家の松平忠利が知行3万石で入封した。寛永9(1632)年に忠利が死去し幼い忠房が跡を継ぐと刈谷に転封となり、代わって水野忠清が4万石(のち加増され4万5000石)で入封する。寛永19年に水野忠清が信濃国松本へ転封すると、駿河国田中より4万5000石で水野忠善が入封。正保2(1645)年に忠善が三河岡崎に転封となり、豊後国杵築より小笠原忠知が4万5000石で入封する。忠知死後、長矩が4万石を継ぎ、残り5000石を弟2人に分知している。その後、長祐・長重と続く。元禄10(1697)年に長重が武蔵国岩槻に転封すると、丹波国亀山より5万石で久世重之が入封し、宝永2(1705)年に下総国関宿に転封、領地を交代する形で関宿から8万石で牧野成春が入封する。成春死後、跡を継いだ成央が正徳2(1712)年に日向国延岡に転封となり、下総国古河から7万石で大河内松平家の松平信祝が入封する。享保14(1729)年、信祝は遠江国浜松へ転封となり、浜松から松平(本庄)資訓が7万石で入封するも、寛延2(1749)年に再び両家は領地を交換する形で信祝の跡を継いだ信復が吉田に、資訓が浜松へと移る。以降、大河内松平家が明治維新を迎えるまで吉田藩主の座にあった。吉田藩は、小笠原家時代に吉田城や城下の整備を行い、久世家の時代から幕府の命令で新居関所の管理を請け負った。明治維新時には、尾張藩・岡崎藩などとともに三河における勤王誘引に従事した。寛延元年時、市域では藤岡・足助・旭地区に吉田藩領がみられる。これは天保5(1834)年時になっても変化していない。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻8ページ