(りくぐんとくべつだいえんしゅう)
【近代】
戦前の日本陸軍では、来たる実戦に向けてさまざまな種類の演習を行っていた。教練効果を実戦に擬して試行してみるのが、軍隊における演習である。そのなかでは、大規模演習として、連隊や師団を単位とした会戦の演習である秋季機動演習が実施された。この秋季機動演習のうち、大元帥である天皇の統監の下に原則として毎年1回行われる陸軍特別大演習は、参加部隊の規模などが特に大規模化したもので、文武の大官が臨席するなど、陸軍のなかでも最大の演習であった。2個以上の師団を対抗させ、通常はこれに他の部隊を編成、司令官は勅命によって大将もしくは中将が任命された。日数は4日間。演習実施地域は毎年移動するのが通例で、一般の田畑や山林でも演習が実施され、地域を巻き込む大きなイベントでもあった。愛知県内では、大正2(1913)年11月13日から4日間の日程で、西春日井郡・愛知郡・碧海郡・幡豆郡で実施され、市域もその対象地域となった。第三師団(名古屋)と第十五師団(豊橋)を東軍、第九師団(金沢)と第十六師団(京都)を西軍とし、東軍は三河から名古屋へ向かって進軍、西軍は木曽川周辺から東へ進んで東軍を撃退するとの想定で実施された。この演習は大正天皇即位後すぐに実施されたため、愛知県内では大いに盛り上がりをみせた。次に愛知県で陸軍特別大演習が実施されたのは、昭和2(1927)年である。第一師団(東京)と第四師団(大阪)が東軍、第三師団などが西軍となり、東軍は豊橋方面から名古屋へ、西軍は名古屋方面から三河へ向かう形をとり、演習が実施された。この時も市域は演習の対象地域となった。昭和天皇はやはり即位後すぐに演習を統監。そのため、愛知県内では天皇来県を含めて大きく注目された。天皇は碧海郡高岡村に設置された駒場野外統監部に来て戦況を視察。報告を聞き、戦線を巡視した。地域にとって、軍隊を受け入れるための準備は多大であった。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻390・508ページ、11巻37・91ページ