(りゅうこういんほんどう・さんもん)
【建築】
桑原町(稲武地区)。寺は、曹洞宗、室町時代後期に春日井郡大草村福厳寺の卍室長吉が当地に草庵を開き、城主菅沼氏の帰依を得て龍興院を開創したという。その後、天正年間(1573~92)に無住になると、白峰林太が弟子の月心全甫を従え、寛永10(1633)年に現地に寺を復興し、中興開山を白峰林太とし、龍光院と改称した。その後、第5世月郷本明が宝永5(1708)年に現本堂を建立している。山門は建築様式からみて18世紀中頃の建立とみられる。本堂(写真)は、桁行7間、梁間5間半、寄棟造、桟瓦形鉄板葺、一間向拝付(後補)、南面建ち。間取りは、前面に広縁を通し、前後2列、横3室の方丈形式とする。向拝は、現在礎盤に几帳面取角柱を立て、柱上に虹梁を渡し、大斗・肘木を置き、主屋と角梁で繋いでいる。堂前面は、現在中央柱間を入口とし、その両脇間に横舞良戸を入れるが、これは向拝付加の際の改築による。この両脇では中敷居、差鴨居に引違い戸を入れて窓とする。堂内は、広縁では幅1間の畳敷詰めとし、大間では間口3間半、奥行2間半の17畳半とし、前面では柱間3間とし、中央柱間に差鴨居を入れ、この両脇では敷鴨居・内法長押を各室境と同様に通し、内法上には欄間を挟んで小壁を入れている。大間と上・下の間境では、内後上中央に吊束、竹の節欄間を入れ、格天井を張る。上・下の間では10畳とし、上奥・下奥の間では8畳とし、上奥の間では床の間、付書院、下奥の間では仏壇を設けるが、いずれも後補である。内陣は、前面に2本の丸柱(露柱)を立て、柱間に3スパンの虹梁を渡し、柱頂に平三斗を置く。内陣中央後方では来迎柱を立て、柱頂に出組斗栱を置き、格天井を張る。来迎柱前には須弥壇を設け、後方に仏龕を出して本尊を安置し、背面の中央に後門を開き、両脇に脇仏壇を設け、後方に位牌堂・開山堂を延ばす。山門は、切妻造、桟瓦葺、四脚門。総角柱とし、主柱間に冠木長押、方立を設けるが、扉は吊られてない。主柱と控柱間には腰貫、頭貫、控柱間では虹梁を通し、柱頂に出三斗を置き、妻には虹梁大瓶束・笈形付をみせる。小型の四脚門であるが、良質の門である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻167ページ