龍田院本堂

 

(りゅうでんいんほんどう)

【建築】

古瀬間町(高橋地区)。寺は、曹洞宗、大永元(1521)年に寺部城主鈴木重明の家老である鈴木重正が一宇を建立し、九州筑後の希声英音和尚を開山とした。四世玉庵英琢の弟子香誉は天正5(1577)年に還俗して上洛し、京都所司代板倉伊賀守勝重となり、慶長8(1603)年に徳川氏より寺領の寄進を受け、当地の同宗の拠点の一つとなった。本堂は、建築様式から18世紀後期の建立とみられる。本堂は、桁行6間、梁間6間、寄棟造、本瓦葺、一間向拝付、南面建ち。間取りは、前面に広縁を通し、奥に前後2列、横3室の方丈形式とする。向拝は、柱上に虹梁を渡し、柱頂に連三斗を載せ、主屋を海老虹梁で繋いでいる。堂前面では中央柱間に虹梁を渡し、木階を付し入口とする。両脇柱間では、敷鴨居・内法長押を通して引違い戸を入れ、二軒疎垂木をみせる。堂内は、広縁では現在畳敷詰めとし、棹縁天井を張る。大間では、前面中央柱間では内法を高く角梁を通し、その両脇と各室境では敷鴨居・内法長押を通し、内法上小壁とする。大間の両脇では、内法上に吊束と竹の節欄間を入れる。上・下の間はいずれも10畳とし、上奥・下奥の間もともに8畳として棹縁天井を張る。上奥の間では背面に床の間と背後への戸口を設け、下奥の間では、背面に位牌壇を設ける。内陣は、前面に2本の丸柱(露柱)を立て、中央柱間の内法を高く、虹梁を3スパン渡し、その上に彫刻欄間を入れ、柱上の斗栱は略される。内陣中央後方に来迎柱を立て、柱頂に出三斗を置き、格天井を張り、前に須弥壇、後ろに仏龕を出して本尊仏を安置する。来迎柱の両脇奥では脇仏壇を造り、その中央を後門とし、後方に開山堂を設けている。曹洞宗本堂として中規模の建物であるが、宗門の特徴を良く備えている。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻143ページ