林業不況

 

(りんぎょうふきょう)

【現代】

戦後の日本の林業はその存立基盤が長く失われてきた。戦時中の軍需用、戦後の復興需要による森林の乱伐のためで、奥山以外のめぼしい森林資源は姿を消してしまったからである。しかも、植林を進めて伐採ができる伐期は、50年以上を要するため、戦後の一大造林運動だけでなく、次に続く高度経済成長期の木材需要の増大にも対応できず、過伐と山主の売り惜しみもあって、日本の林業自体が成立しなくなった。その結果、政府による緊急の外材輸入の自由化が実現し、安価で大径木の輸入材が国内材を圧倒、日本林業の衰退にいっそうの拍車がかかった。こうした状況を背景に豊田市やその周辺ではゴルフ場の誘致に端的に示されるような林野の転用が行われ、それに伴って林家には兼業化による所得の増加がもたらされたが、一方では林野面積の減少が進んだ。これに対して林野保護の動きも生じ、特に昭和47年7月豪雨をきっかけに小原村やその周辺町村では治山事業が大きく進展、また保安林の設定も実施され、飯盛山が森林浴など森林レクリエーションの場を提供する保健保安林、怒田沢保有林が洪水や渇水を防止し、安定した水の確保に効果を発揮する水源涵養保有林に指定された。さらに矢作川水源基金が設立され、森林の保全対策に対する助成も実施されるようになった。現在、1960年代の植林木が伐期を迎えているが、長年続いた林業不況のために山間部に林業を支えられる労働力がなくなり、技術も低下し、またそのような環境の中で放置された育林木の価値低下もあって、外材への対抗は困難な状況が続いている。その一方で外材輸出国も製材品輸出に転向したり、環境保全の問題が大きくなり、外在の価格の上昇がみられ、国内材との価格差が縮小したこともあり、今後の国産材の対応に可能性の芽も出てきている。

『新修豊田市史』関係箇所:5巻451ページ