(りんしょういんほんどう)
【建築】
国閑町(足助地区)。当寺は、岡崎の浄珠院第3世承然崇禀が当地の廃寺に居住して念仏布教を行い、文明元(1469)年に村人の寄進を得て草庵を開き、慈光山林松院瑞雲寺と号したと伝える。現本堂は、棟札によって、明和4(1767)年に建立されたことが分かる。山門は、虹梁、斗栱などの絵様から判断して19世紀前半のものであろう。本堂は、桁行5間(実長6間)、梁間5間半(5間半)、入母屋造、桟瓦形鉄板葺、一軒疎垂木、1間向拝付、南面建ちである。柱は、来迎柱、内陣周囲を丸柱とする他は面取角柱とする。堂内は、外陣では凹字型を30畳の畳敷詰とし、両側面では敷鴨居・内法長押を通して引違い戸を入れ、棹縁天井を一面に張っている。脇の間は、内陣前面より1間後退させており、その前面では敷鴨居、内法長押を通し、内法上に吊束を入れて小壁を下している。現在、内部は板の間とし、床高は外陣に一致させるため、内陣の高い床とは段差があり、東西両外と背面に奥行半間の下屋を出し、一面に棹縁天井を張っている。内陣は、前面と両側面の柱間下方では床を高めるために蹴込板、框を通して床高を全体に上げており、前面柱間3間と両側前1間では頭貫位置に3スパンの虹梁を渡し、柱上に台輪を通し、柱上に出三斗をおいて天井廻縁を支え、内部には格天井を一面に張っている。内陣中央後方3間に来迎柱2本を立て、柱上に頭貫虹梁(端木鼻)、台輪を通し、柱頂に出三斗を載せている。なお、本堂前方にある四脚門は、木柄は太く、良質の欅材で本格的な技法により造られており、江戸時代後期の良質な遺構である。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻53ページ