隣松寺 

 

(りんしょうじ)

【近世】

承和10(843)年に創建され、仁治元(1240)年あるいはそれ以後に、天台宗から浄土宗寺院に転じたと伝えられる幸町(上郷地区)にある寺院。永禄期には、三河一向一揆の鎮圧をめざした徳川家康方の拠点となったという。そののち家康は、天正8(1580)年の制札で寺領等を保全し、慶長7(1602)年2月の朱印状で寺領30石を与えている。慶安2(1649)年の検地は寺領として60石以上を計上したが、歴代将軍の朱印状は家康朱印状の30石から変化しない。周辺住民との関係では、寛政4(1792)年に父に雑言を吐いた「不孝」者への赦免、寛政6年に生じた土地譲渡の「不調法」への赦免、寛政7年に田畠検見反別帳記載の相違への咎めなど、厳しく咎め、しかし許す、という内容が目立つ。隣松寺は、尾張藩の成立以前の尾張国主で、清須城主だった松平忠吉の菩提所であるという由緒を整え、文政年間(1818~30)には、忠吉墓の墓守に与えられたという隣松寺伝来の徳川義直黒印状が「尾州家隠密方之同心三河掛り」の目にとまり、この黒印状を尾張藩へ提供する見返りに、忠吉菩提所として尾張藩から正式に認められたらしい。隣松寺はこの由緒に基づき、天保3(1832)年には矢作川洪水からの復旧、天保5年には人馬継立問屋設営、天保7年には寺領困窮による扶助米の支給など、さまざまな要求を尾張藩に対し繰り出している。隣松寺は、三河国細川郷出身とされる肥後藩主細川氏との由緒、淳和天皇皇子隣松院の遺跡であるという由緒なども主張していたが、隣松院の由緒はむしろ周辺の神職など知識層が主にとなえていた。隣松寺には、「三河古墳記」など幕末期のいわゆる陵墓再興運動に関連しそうな史料が残されているが、住職はこの由緒が正式に認められるための資金提供には消極的であった。隣松寺の自己主張は幕府代官をも翻弄する場合があった。寛政3年には、宗門帳で本来は蔑称である「一向宗」という表記が「浄土真宗」と書き換えられていたことを、浄土宗寺院としての隣松寺が問題視し、この事実に気づかなかった代官が狼狽しまくしたてた江戸弁まるだしの発言を、隣松寺は口語体で活写している。隣松寺は天保3年には、実態のなくなっていた朱印寺領の回復を幕府代官に要求し、「このようなもめごとをつくりだすのは御出家の得意技」だと代官を嘆かせている。隣松寺は幕府代官のいわば肉声を今日に伝える記録者としての力量を備えていた。なお、明治期に入っての史料となるが、末寺の上野郷幸福寺との関連で、遊女であった女性の境遇に関わる史料を伝えているのは興味深い。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻657・711ページ