林宗寺  

 

(りんそうじ)

【近世】

元西洞に所在し、臨済宗系の住職が寛文11(1671)年に飯野村(藤岡地区)に移転させたものの荒廃し、残念に思った「邑民(村人)」が「太守(尾張藩主か)」に依頼して雲興寺の別岫を開山にまねいたという。そして変転はあったが、曹洞宗2代住持の道船越宗が享保6(1721)年に再興を果たしたという。同寺には、飯野村と遠隔地との関係を示す史料がある。例えば、大野鍛冶に山林を売り渡している史料があり、知多半島の鍛冶職人との交流が見出される。知多半島の鍛冶の必要とする燃料が三河の山間部にまで求められていたと考えられる。林宗寺は名古屋の商人から故人供養のために資金、つまり祠堂銭が託されており、飯野村の百姓がその金銭と引き換えに土地を売却し、年貢納入を果たしたとわかる史料もある。こうした遠隔地との関係は、曹洞宗の人脈によると予測されるが、寺の土地や財産は飯野村の役人が管理しており、住職の生前の生活費や死後の永代供養料などもそこから出すと取り決められている。寺の住職は天皇の綸旨をもって、永平寺住持という高い格式・身分を得ていたが、そのために必要な費用も、村役人の管理する寺の財産からまかなわれたのであろう。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻671ページ、7巻711ページ