炉跡

 

(ろあと)

【考古】

建物跡内部の床面で発見される、火を焚いて食物を調理し、暖をとり、照明の役割を果たしたとみられる遺構。旧石器時代~縄文時代前期前半までの竪穴建物などでは屋内で炉跡は検出されず、火処は屋外に設けられていたとみられている。この時期、屋外には炉の一種とされる「炉穴」遺構がみられるが、大きさや構造の違いから炉跡とは性格を異にする施設と推測されている。竪穴建物内に炉を設けることが一般的となるのは縄文時代前期以降のこととされ、炉には地面を掘りくぼめて火を焚いた地床炉、掘りくぼめた穴の周囲に石をめぐらした石囲炉、地床炉に底部を欠いた深鉢を埋めた埋甕炉(土器埋設炉)、炉の底に土器片を敷き詰めた土器敷炉などがある。市域では縄文時代前期後半から屋内に炉跡がみられるようになり、稲武地区ヒロノ遺跡SB01、足助地区下平町馬場遺跡第7号住居跡・第8号住居跡で前期後半の地床炉が見つかっている。中期後半からは石囲炉(写真上:旭地区大砂遺跡第1号竪穴建物跡)が主体となり、後・晩期へと続く。弥生時代の竪穴建物では地床炉が一般的で、古墳時代前期へと継続し、中期にカマドが普及するとともに地床炉は消滅したとされる。市域では、弥生時代前期~中期前葉の間の調査例がみられないが、中期中葉以降、古墳時代中期の5世紀中頃に至る間に地床炉が一般的となった。弥生時代後・終末期の保見地区伊保遺跡、挙母地区梅坪遺跡、高橋地区高橋遺跡・寺部遺跡・栃原遺跡(写真下:SB11)、上郷地区神明遺跡などの地床炉では、その使用目的は判然としないが、「炉石」と呼ばれる扁平な自然石1個を炉の一角に立位の状態で設置した事例が多数みられ、豊田盆地およびその周辺の地域的特色として注目されている。市域でカマドが普及し地床炉が消滅していく時期は、上郷地区神明遺跡などの調査事例から、古墳時代中期の5世紀中頃~後期の6世紀のこととみられている。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻80・84・91・96・288・289・301ページ、18巻373・488・580ページ、19巻44・88・138・166・190・256ページ

→ カマド竪穴建物炉穴