(ろくしょじんじゃ)
【古代・中世】
坂上町に所在する、松平氏との関係が深い神社。六所山(標高611m)の山頂にある上宮、山麓にある下宮、蜂ヶ峰神社の三社を総称。山頂付近には10世紀前半とみられる出土物のある六所山遺跡がある。「六所神社由緒書」などによれば、永和3(1377)年に松平親氏により創建されたと伝えられる。永正17(1520)年に大給松平氏の細川次郎親世が吉木宮を再興するという棟札の写しが残っており、この吉木宮が同社とされる。「六所神社造営奉加帳」(市指定文化財)によれば、大永7(1527)年12月に同社は深夜の不慮の火災で焼失し、数年後に再興のため、安城松平氏の長忠(道閲)・信忠(祐泉)父子が同「奉加帳」を作成した。「当社大明神」が「当国鎮守之霊苗、郡村加護之明神」であり、とりわけ「松平一党之氏神、先祖崇敬之霊社」であるとして松平一門・一族の合力・助成を呼びかける内容で、安城松平氏の勢力伸長がうかがえる。長忠100疋、祐泉500疋の奉加が記録されているが、2人の連署の後は空白であり、呼びかけられた松平諸氏の反応はわからない。なお、この「奉加帳」に同社の所在が「外下山郷」とあることも注目される。同地の一画が近世初頭に「松平郷」になっている。ちなみに、同社は天文15(1546)年以前には岡崎にも勧請され(岡崎市明大寺町)、やはり松平氏等の外護をうけて発展した。賀茂郡の六所神社はさらに、「六所御宮立之書立之事写」によれば、文禄3(1594)年にも自然火災により社殿・神宮寺・籠所・御穀所・小鷹御殿がすべて焼失してしまった。辻重勝の発願により、焼失から2年後に田中吉政・吉次らの再興助成の祈禱がなされ、慶長2(1597)年に諸殿が再建された。こけら葺きで四間四方の社殿をはじめ、舞屋・大黒屋・薬師殿・籠所・湯立所・こたり三社・本社・不動天・小社・巫女部屋などの造営が記録され、当時の境内堂舎の規模がうかがえる。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻478・634ページ
【近世】
近世に入り、近隣の領主が寺院修造に必要な用材を六所山で伐採したいと希望し、太郎左衛門家を通じ、無染が応永元(1394)年に開いたと伝えられる六所神社の別当寺である宮口村地蔵院の了解、すなわち「神籤」による許可を得ようとしている事例がある。この背景には、六所神社創建の由緒が関わっている。社伝では、永和3(1377)年に松平親氏が奥州塩釜六所明神を勧請したのに始まると伝えられるが、確実な史料上の初見は、天文16(1547)年の龍海院宛松平広忠寄進状とされており、土地の境目の目印として「東は六所の谷境」とある。親氏の直系とされる旗本松平太郎左衛門家の家臣方に保存されていた江戸時代作成の冊子のなかに、神社の言い伝えの永和年間とは隔たるが、永享7(1435)年8月19日付の六所大明神棟札銘の写がある。妙昌寺開山の無染が、親氏の求めに従い「御安産御儀式」を執行したと記す。近隣の領主は、この由緒をもとに許可を得ようとしたのであろう。地蔵院には近隣村方の女中からも信仰が寄せられていたらしい。文政12(1829)年には、六所神社の管轄をめぐり、地蔵院、神主酒井氏、宮口村の3者の間で対立が生じ、内済つまり和解のための規定が作成されている。なお六所神社には、当社が所在した宮口村関係の多彩な史料が保管されている。新修豊田市史資料編に収録された史料でみると、江戸時代から明治期に及ぶ山論ないし山管理に関する史料、享保15(1730)年に領主奥殿藩から出された宮口村物成請取帳、同年の村明細帳、享保20年に領主奥殿藩に提出した鉄炮預証文、文政9年の六所明神進上地所から庄屋役料を出すとの取り決め、嘉永4(1851)年に宮口村が嘆願した助郷免除願い、安政4(1857)年の幕府中泉代官関係者とみられる人物との接触に関する弁明書、慶応2(1866)年の村規定などがある。今後のさらなる調査の進展が期待される。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻666ページ、9巻533ページ
【近代】
明治6(1873)年郷社に列せられ、それまでの六所大明神から六所神社へと改称する。大正年間に村社神明社などを合併する。大正6(1917)年4月25日に神饌幣帛料供進神社に指定される。その翌年から下宮の神楽殿・御輿殿を廃して拝殿・祭文殿を新築した。その後、御料林となっていた神社林の払下げを受ける。下宮の整備と基本財産の増殖を踏まえて大正10年に社格昇格を出願し、翌年9月に県社へ昇格した。紀元二千六百年記念事業として、上宮の本殿修繕、中門・塀・神饌所の新築、拝殿を移築して籠殿とするなど境内を一新し、昭和18(1943)年4月19日に本殿遷座祭を執行した(写真:上宮本殿造営記念写真)。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻478ページ、12巻485ページ