和鏡

 

(わきょう)

【美術・工芸】

中国や朝鮮で作られ日本に輸入された舶載鏡を手本にして作られた鏡を倭鏡や倭製鏡と呼んでおり、一般に平安時代から江戸時代にかけての鏡を和鏡と呼んでいる。遣唐使が廃止されて唐からの文物の流入が途絶えるようになると、唐の鏡を模した国産の鏡にも、日本独特の要素が目立つようになり、10世紀後半頃には鏡の紐の廻りに瑞花と鳳凰を対称に配置する瑞花双鳳八稜鏡の形式が成立する。これは鏡文様がより和様化する途中段階の唐式鏡と呼ばれている。和鏡が成立するのは平安時代後期であり、宋鏡の影響や、蝋型鋳造法から真土まねと呼ばれる粘土と砂を混ぜた緻密な生乾きの土型に、金属製の箆で文様を押しつけて描画する「箆押し技法」に切り替わることなどが要因であるという。鏡文様に松や菊、鶴や雀などの花鳥の意匠が主に取り入れられ、やわらかい線描きの繊細な絵画的構図をもつ鏡であり、これを総称して和鏡と呼んでいる。平安時代後期には出土鏡の事例が爆発的に増えており、貴族層では鏡が化粧道具として普及していたと考えられるが、呪具としての性格が強いことから、経塚などの信仰遺跡で出土している鏡が大半を占めている。市域では飯盛山山頂の経塚から和鏡が出土している。平安時代後期の鏡は小型のものが多く、鏡胎も薄くて縁は細縁になり素紐が多いのであるが、低い捩菊座を伴うものもみられる。鎌倉時代には鏡胎が厚くなり、縁も高く幅広になり、紐も花形座紐や亀形紐が現れる。室町時代には重量感が増す傾向があり、鏡胎が厚く縁も幅広で高くなり、文様も鋭角に表現されている。紐の中には亀形紐と双鶴が接嘴する特徴的な形式が出現している。桃山時代には円鏡に柄をつけた柄鏡が出現し、江戸時代には一部の婚礼調度の円鏡を除いては柄鏡が主流となり、庶民の間でも愛用されるようになるが、明治時代にはガラス鏡が普及して和鏡はその役割を終える。

『新修豊田市史』関係箇所:21巻442ページ

→ 秋草遊鹿双鳥鏡(豊田市蔵)