(わたしぶね)
【近世】
人・物資を乗せて海や川などを渡る船のこと。橋がかけられない幅の広い川では、船を利用して川を渡った。豊田市内の諸街道や対岸の村など耕地に向かう手段として利用され、その場所に渡船場が設けられた。江戸時代から明治にかけて矢作川・巴川には渡船場が40か所あったとされる。渡船は両岸の村が担うが、両村が船を出すのを両越し、片方の村のみ船を出すのを片越しといった。伊那街道では、矢作川の渡船場は東枝下村(石野地区)と西枝下村(猿投地区)にあり、ここでの船利用者は、西岸は西枝下村、東岸は東枝下村であった。当時このあたりの川幅は80間余(約144m)、深さは6尺余(約1.8m)であった。巴川筋の岡崎-足助間の道は、鍋田村と二本木村の間、あるいは中村と岩倉村(ともに松平地区)との間に渡河点があり、足助街道を利用する通行者の渡し場であった。街道の渡船は中馬や三州馬の利用もあり、乗船の人馬数が決められていた。船を新たに作る際には領主から費用の半分、あるいは3分の1を下付された。領主がかわっても以前からの顛末を申請することで村は下付金を得ていた。船の使用期限は3年から5年程度であったと思われる。渡船の大きさは、文化13(1816)年の今村(挙母地区)の新船仕様では長さ4間半(約8.1m)、横1間3寸(約1.9m)で、杉板の厚さは1寸5分(約4.5cm)、費用は金6両であった。寛政6(1794)年の簗平村(小原地区)の新船仕様は幅が不明であるが長さ4間2尺(約7.8m)、板底の厚さ1寸4分(約4.2cm)であった。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻436ページ
【近代】
廃藩置県後、愛知県は渡船業者に営業鑑札を与え、公定賃銭を設定するなど管理を行った。明治10(1877)年2月県は区戸長に対して業者の賃金、通行人馬の年間平均量を調査して、適正な運賃を算出することを命じた。第九区(碧海郡)の宗定村が提出した賃銭調書によれば、対岸の額田郡磯部村への渡船料は人は2厘、人力車は6厘、荷車・牛馬は8厘であった。渡船は住民の日常生活に不可欠の交通手段であり、増水時には安全を確保することが必要であった。また渡船者や物資を監視する役割を担っていた。県は駅伝渡船営業取締規則を制定して、営業上の注意事項を示し、その中には増水時の配慮や不審者の警察署への通告などの条項もあった。大正年間には小原村から挙母町・高橋村に至る矢作川に8か所の渡船場があった。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻168ページ