渡辺家(尾張藩)

 

(わたなべけ(おわりはん))

【近世】

尾張藩重臣で、三河国寺部村に陣屋を置き知行所を支配していた家。知行高は、最大1万4000石と、陪臣ながら大名並みの石高を有した。渡辺家は松平家(後の徳川将軍家)に代々仕えた家であった。尾張藩藩士として初代となる渡辺守綱は、今川氏家臣であった頃の徳川家康に仕えた。守綱は永禄6(1563)年の三河一向一揆の際に一揆側に与して家康と敵対したが、敗北後に帰参。以後、いくつもの戦功を立てるとともに、足軽隊の指揮官として活躍した。慶長5(1600)年、家康からそれまでの忠節と戦功を賞され南蛮胴具足を下賜されている。慶長18年、守綱とその嫡子重綱は、家康の命令で尾張藩主徳川義直付属となり、家康から尾張・三河両国でそれぞれ5000石を与えられ、寺部城(陣屋)を守衛するよう命じられた。なお、この頃までには手桶の旗印を使用するよう仰せ付けられている(写真:紺麻地白手桶文指物)。渡辺家は以降、重綱・治綱・宣綱・定綱・直綱・綱保・綱通・綱光・規綱・寧綱・綱倫・綱聰と続き明治維新を迎える。知行高は重綱・治綱の代には増減がみられたが、宣綱が父治綱の知行1万石余を相続して以降は変化しなくなる。渡辺家は義直付属にならなければ譜代大名ないし上級旗本の家であったため、家督相続の際などには陪臣ながら将軍への拝謁や献上儀礼が許された。同家は、知行1万石余を有していることから大名家並みの家臣団を有していた。延宝6(1678)年から明治2(1869)年までの分限帳からは、江戸中期は江戸後期と比較すると人数が多いが、格式・役職は細分化されていないことがわかる。時代が下るに連れ家臣数が減り、格式・役職が細分化し、役職を兼帯する者が増加する。これは財政悪化に伴う人員削減と、複雑化する社会に対応するために専門に従事する者を必要としたためと思われる。家臣の中には松本家のように寺部村などで土地を集積し、自作ないし農業経営を行う者もいた。


『新修豊田市史』関係箇所:3巻86ページ

→ 寺部陣屋