渡辺善次  1859~1928

 

(わたなべぜんじ)

【近代】

挙母村役場書記、『三河挙母七州城沿革小史』の著者。安政6(1859)年10月20日、挙母藩藩士(70石)渡辺新作和安と松子の5男として挙母七州城内蓮池邸に生まれる。明治9(1876)年、長兄らの早世により渡辺家を相続、16代当主となった。香桜あるいは磊軒と号する。7歳で儒学を志し、藩校崇化館・皇道寮に入る。その後、尾張藩藩儒佐藤楚材や石川青藍の門下で漢文学などを修めた。明治15年2月、学術研究のために学芸社「矢水猿南吟社」を設立、明治16年から「鳴盛新誌」を発行したが、4回発刊したのみで中止となった。また、名古屋の愛岐日報社の編輯員となったとされるが、詳細は不明である。明治16年4月、神奈川県士族斉藤為三郎とともに中立青年自由党を結成した。中立青年自由党は政府と自由民権運動の間に中立し、天賦の自由・固有の権利を伸張して社会に広めることや日本を富強文明の独立国家にして世界各国を凌駕することを掲げた。そして、政治法律の研究や演説・討論の成果を機関紙『愛知青年自由新聞』に掲載するとしたが、刊行されたことを示す史料はない。明治22年12月、挙母村会議員に当選し、明治24年12月に再選する。明治25年2月に村会議員を辞職して挙母村役場書記となった。以後、大正14(1925)年6月30日に退職するまでの32年間無欠勤で戸籍、庶務、学務などを担当した。また、自家の古記録や父祖や古老より聞いた挙母藩治制度、明治・大正期の挙母町の行政などを編纂して『三州挙母七州城沿革小史』をまとめた。他にも、「挙母学校同窓会雑誌」の編纂に尽力し、漢詩集『香桜書謡誌稿』なども著した。昭和3(1928)年2月13日東京への旅行中に静岡県浜松市広沢町で客死、68歳であった。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻85・100・358・398・432ページ

→ 挙母学校同窓会『三河挙母七州城沿革小史』