渡辺釟吉  1879~1967

 

(わたなべはつきち)

【現代】

豊田市名誉市民、挙母町長、市長。明治12(1879)年10月5日、医業を営む一方で村長を務めた渡辺良策の三男として挙母村(挙母地区)に生まれる。明治30年6月に愛知県医学専門学校予科、34年12月には同本科を卒業し、38年3月から父とともに自宅で医業に従事するようになった。大正8(1919)年4月西加茂郡医師会長、昭和12(1937)年4月愛知県医師会副会長に就任した。一方、大正3年4月から挙母町会議員、7年11月から西加茂郡会議員、13年7月から県会議員を2期歴任した。昭和21年5月に中村寿一挙母町長が辞職し、そのあとを受けて7月に町長に就任した。22年4月町長に再選、26年3月に挙母町が市制施行した際に初代市長に就任した。町長、市長として、戦後挙母市の発展の基礎をつくった。30年の市長選で、元町長の中村寿一に敗れて落選した。昭和33年、挙母市を豊田市に変更する動きが起きると、渡辺は「挙母愛市同志会」を結成して反対運動を行った。36年3月1日に豊田市名誉市民に推挙され、42年12月4日死去。享年88。死後に従五位勲四等に叙せられ瑞宝章を授与された。漢詩にも長じ「柳外」と号して多くの作品を残しており、死後その一部が『柳外遺韵』として公刊された。


『新修豊田市史』関係箇所:5巻3・7・144ページ

→ 市名変更問題