割木騒動 

 

(わりきそうどう)

【近世】

天保4(1833)年から5年にかけて、割木(燃料用の薪として大きな需要があり、木炭生産と並んで山間地における貨幣収入の中心となっていた)の安値買いたたきに抗議して、最終的に九久平(松平地区)の同荷扱い問屋の割木値下げを撤回させた、割木生産者たちによる訴願闘争。九久平は年貢津出しや下流部からの塩の荷揚げ地、同時に巴川東部の山地から伐り出される薪や炭の集散地として繁栄した。ところが、九久平の問屋が莫大な利益を得ていることに不満を持った巴川東部の23か村が、九久平の問屋に対して打ちこわしの形勢を示した。旗本鈴木家は九久平の問屋を優遇し山村の生産者を差別しているとの認識があった。この騒動の扇動者として名を馳せたのが下河内村(松平地区)の松平辰蔵であった。辰蔵は割木が荷として出ていく鷲塚や平坂の湊まで赴き価格を調べ、流通過程を見回したうえで、それをもとに交渉して事を収めた。この成功によって、彼は後の加茂一揆の頭取になったとも理解されている。なお、この騒動は天保7年の加茂一揆の前哨戦と位置付けられている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻533ページ

→ 松平辰蔵