「江戸一目図屏風」について
江戸一目図屏風(岡山県指定重要文化財)
紙本墨画淡彩・六曲一隻 天地176.0cm/左右352.8cm
目録「江戸一目図屏風」は、鍬形蕙斎が、文化6年(1809)に描いた江戸の景観図である。画面中央に江戸城を置き、その背後には富士山、そして左に江戸湾、下方に隅田川を配するなど、隅田川東部の上空から鳥になって江戸の町を見渡したような俯瞰図として、極めて写実的に見えるように描かれている。
屏風全体に広がる大画面には、江戸城内の大名屋敷や巨大都市江戸の町並みを初めとして、日本橋や両国橋、上野の寛永寺、雷門で有名な浅草寺、それに遊郭の新吉原など、地方の人々にもよく知られた江戸の名所を中心として、実に500か所以上もの名のある場所が、四季の彩りを添えて描き込まれている。
この「江戸一目図屏風」が登場するまでの「洛中洛外図屏風」や「江戸図屏風」では、様々な伝統行事や名所を同一の画面上に配置してあるものの、時間や空間の矛盾を自然に解消することができず、不連続な部分をたなびく金雲によって処理していた。
しかし、蕙斎の「江戸一目図屏風」では、巧みな遠近感と画面構成の妙により、実際には距離も方位も少しずつ異なるそれぞれの部分を、違和感を与えることなく自然につなぎ合わせており、江戸時代を代表する新しい都市景観図の傑作として、その評価は極めて高い。
更に、現在では美術的な価値のみならず、風俗や建築、そして歴史的な都市景観の研究資料としても注目されている。
作者:鍬形蕙斎
作者の鍬形蕙斎は、俗称を三二あるいは三二郎といい、生年は不詳であるが、明和元年(1764)説が有力視されている。浮世絵師北尾重政に師事して修行し、天明元年(1781)には、北尾政美の画号を許された。ちなみに、著名な戯作者の山東京伝は、その兄弟子である。
浮世絵師としての政美は、武者絵や浮絵、あるいは黄表紙の挿絵を数多く描いて好評を博していたが、寛政6年(1794)、津山藩に絵師として召抱えられる。浮世絵師から武士になるという破格の出世であった。津山藩の家臣となって間もなく、三二から蕙斎へと改号し、お抱え絵師として狩野家へ入門した後には、名を改めて紹真と名乗る。寛政9年(1797)には、浮世絵師としての北尾の姓を改め、母方の姓である鍬形を本姓とした。
蕙斎は、お抱え絵師としての職務を果たす傍らで、様々な人物の様態や鳥獣魚貝などを、簡略化された筆致で描いた『略画式』シリーズや、傑出した江戸の鳥瞰図として著名なこの「江戸一目図屏風」、松平定信の求めにより同時代の多様な職業の人々を軽妙に描いた『近世職人尽絵詞』など、多くの傑作を残し、文政7年(1824)3月、病により江戸で没した。