序言

前鶴ケ島町史編集委員長 藤倉寛三

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 昭和五三年、当時の岸田長町長の発案によって、町史編さん事業が開始されてから八年を過ぎた。最初にその編さんを委嘱されたときには、私の方でも別に腹案もなく、十分な打合せを行なったわけでもなく、簡単に引請けてしまった。ところが、その後、他の市町村でもぞくぞく郷土史編さん事業が始まり、しかも大規模な企画で、なかには十数巻発行を予定するものが続出した。
 そうなると当町でも、人口増加とともに都市化が進み、市制施行も間近にひかえており、貧弱な郷土史ではすまされなくなった。かかる内外の状勢を踏まえて、町史編さん事業も見直しを迫られた。その結果、資料編六巻、別編四巻、通史編一巻編さんの大事業となってしまった。
 ところが、困ったのは資料の乏しさである。当町は昭和三十年代初頭の市町村合併のさい、他の町村と合併することなく、旧村の規模のまま町制が布かれたのであるから、資料も旧村内でしか蒐集できない。時代別に見ると、古代・中世には資料はもちろん文献にも町内の名は出てこない。江戸初期に至っても同様である。時代がぐんと新しくなって、明治以降になると、一見して豊富な資料に恵まれてもよい筈であるが、事実は逆で、年代の新しいほど資料の乏しさを嘆息せざるをえなかった。
 その結果、この郷土史は郷土の範囲を多少広めざるをえなかった。古代には高麗郡全体が対象となり、中世や近世初期には近隣の村々も郷土の範囲に含めることになった。明治以降についても、いわば広域郷土史というべきものになった。
 次に、資料の発見と蒐集について述べたい。郷土史の編さんは、資料が前以て用意されており、執筆者の仕事は早速その資料を駆使して、一気に書き上げるという安易な方法をとることはできない。仕事の第一歩は町内の資料探しである。旧家をかたっぱし訪問して資料の有無を確かめる。資料が保存されていることが分れば提出を懇願する。しかし、実際にそれが提出されるまでにはかなりの時間を要する。幾度か訪問を重ね、我慢強く時機を待たねばならぬ。このような根気を重ねて初めて古文書に接することができる。その文書を入手したのちは早速、解読と筆写に取りかかるのである。
 もちろん、こんな根気と時間を要する仕事は一人だけで完遂することはできない。幸いに途中から有力な応援隊が現われて、発見と蒐集に協力していただくことになったのである。それは協力員を大字毎に委嘱することであった。それらの人々から地元の情報が確実に伝わることになり、それを受けてこちらから出向いて資料を入手することにした。また編さん室に資料捜査専門の係として西川制君が新任され、東奔西走することになった。おかげで、近世中期以降は豊富に資料を揃えることができた。
 次に述べたいことは、この郷土史は農民および農業に主体をおいた歴史であるということである。この町は従来純農村として代々農業に励精した農民の町であり、従って、華々しい歴史的事件が起ったり、合戦が行われた場所ではない。また歴史上で著名な武将が現われたり、政治家が活躍したわけでもない。歴史の表面に出ることなく、ただ黙々として底辺で働いた農民の町である。それで、特に、江戸期以降の記述については、わりあい資料に恵まれたので、農民の生活とその歴史に主体をおいた郷土史となっている。その点諒承されたい。
 
 最後にお礼を申し上げる。
 この通史編については、自然史の方では、地質は柴崎達雄、楡井尊、動植物は大野正男、田村説三、神沢利一、気象は滝沢利秋、原始・古代は吉田恵二の諸先生に分担して、御執筆いただいた。おかげで各方面からの郷土の歴史を明らかにすることができた。厚くお礼申し上げます。
 また、町史編さん委員・編集委員の方々や、調査協力員の皆様には協力・御鞭撻をいただいて感謝に堪えません。
 なお一筆加えたいのは、古代は山下守昭、現代は藤縄善朗の編さん室職員から、資料提出や、原稿作成のお世話になったことである。
        昭和六二年一月