今でこそ児童公園として、すっかり整備されてしまった雷電池は、かつては、うっそうと茂る老樹の影をうつす、こんこんと地下水が湧きでる泉であった。古老たちの話によれば、「五色の浮き草の一面に浮く」竜蛇がすむにふさわしい、神秘的なたたずまいをもつ池であった。この有様が失われたのは、つい一五年もたっていない最近のことなのである。
明治八年に書かれた「村誌編輯」によると、当時の雷電池の大きさは東西一二間(約二二メートル)、南北二五間(約四五メートル)、周囲一町二五間(約一五〇メートル)ほどであって、約七町歩(七ヘクタール)の水田の用水源ともなっていたという。昭和五八年におこなわれた雷電池周辺の埋蔵文化財発掘調査では、池の右岸に関間新田にむかう用水堰跡が発見された。この用水跡については、まだ不明のことが多いが、池の水がさらに広範囲に使用されていたことを示唆するものと思われる。
江戸時代後期の文人墨客のあいだに「三郡八景」ともてはやされた名所があった。「三群」とは当時の入間・高麗・比企の地方をさしている。「雨乞い行事」の舞台の雷電池も、比企の岩殿観音や毛呂山の宿谷滝などとともに「雷池(なるかみのいけ)過雨」として、八景の一つにいれられている。池面をすぎる〝通り雨〟の風情が、当時の知識人の創作意欲を大いにそそったものと思われる。それとともに、水の恵みの豊かさを詩情にたくしたものともいえよう。水と人との係わりは昔からかぎりなく深いものがある。