「雨乞い行事」のいわれ

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雷電池から流れでる湧水は、下流にある水田の文字どおりの「生命の水」となってきた。長い干天がつづけば水は枯れ、水不足が生じる。雷電池でも昔から日照りがつづくと、池のそばにある雷電社で降雨祈願がおこなわれた記録が残されている。安永、天明の頃(一七七二―八九)、善能寺住職隆英法印の時代には、その効験があらたかで、文化、文政の頃(一八〇四―三〇)にもなお効験があったという。しかし、天保年間(一八三〇―四四)になると、いくら雨乞いをしても効き目がなくなってしまった。
 かつての雷電池は、今よりも大きなものだったと考えられている。時代が下がるとともに湧水量も少なくなり、池の水位が下がったため、寛永年間(一六二四―四四)には、ついに池の一部を埋め立てて水田としてしまった。伝説によれば、雷電池には大蛇が住んでいたが、住み家をせばめられたため、致し方なしに上州板倉の雷電の池に引越してしまった。雨乞いの効き目が薄くなったのは、そのせいだというお話である。
 竜蛇をつくって雨乞いをする風習が、いつから雷電池に始まったのかつまびらかではない。まえに紹介したように、江戸時代の中頃にはすでに祈願の風習があったこと、またそのさい、竜蛇をつくって池に入れた記録が断片的にも残されていることから、かなり古くからある風習と思われる。
 明治七年(一八七四)の夏も干天がつづき、畑作に大きな被害がでた。いくら雨乞い祈願をしても雨の降る気配もないことから、村人が協議した結果、竜神の引越し先といわれている板倉の雷電神社まで祈願にでかけ、板倉池の水を竹筒にいれて雷電池まで持ちかえり池に注ぎいれた。とたんに今まで快晴だった空が曇りはじめ、雨が降りだした。しかし、一度は雲が切れて晴れあがってしまったが、再び雲がでてきて雷電社の近くで雷鳴が三度ほどとどろくとともに、夜になって豪雨となった。これこそ竜神の御利益と一同感激したという話が残っている。
 その後明治一〇年、二六年、二七年、昭和四年、七年、八年、九年、二二年、二四年にも、雷電池で「雨乞い行事」がおこなわれている。もっぱら天水と湧水にたよらざるをえない農耕を生業とする村人たちの切実な願いが、民俗信仰とからまって「雨乞い行事」を生みだし、伝統行事として存続させたものと考えたい。
 この由緒ある雷電池の湧水も、昭和四八年頃をさかいに完全に枯れてしまった。その主な原因は、池の下流側を走る関越自動車道の工事によって、大量の地下水がくみ上げられ、広範囲にわたって地下水位が低下したためである。現在の児童公園にある雷電池の水は、関越自動車道の切割りからの排水を利用したもので、まったく人工のものである。