これまでの地質および地形からの考察からみて、本来の高麗川扇状地の範囲が、坂戸・鶴ケ島台地の上流側の半分にすぎないとすれば、下流湧水帯の存在はどう説明されるのであろうか。
地質断面図でみると、脚折から藤金、太田ケ谷さらに鶴ケ丘にかけて、武蔵野砂礫層の下にかなり厚い粘土交じりの砂礫(Scg)、粘土(Sc)、砂礫(Sg)の互層が認められる。この地層は、鶴ケ島の南、高萩から狭山市の台地にも連続している。この台地は武蔵野段丘と考えられている坂戸・鶴ケ島台地よりも一段高い段丘で、狭山市の金子段丘あるいは南関東の下末吉段丘に相当するものである。そこでこれらの段丘堆積層を一括して、「金子砂礫層」あるいは「下末吉相当層」と呼ぶことにしよう。
さきに述べた高麗川扇状地の地形の復元とまったくおなじ方法で、この下末吉段丘をきざむ谷を埋めこみ、もとの地形を復元してみると、その形状は飯能市街を扇頂部とする古い入間川扇状地そのものとなる。この扇状地堆積物、つまり金子砂礫層は、小畔川付近から坂戸・鶴ケ島台地の地下に潜りこむが、その様子は地質断面図によく表現されている。
復元された入間川扇状地は、高麗川扇状地より古い地質時代につくられたものである。坂戸・鶴ケ島台地の下流側半分は、むしろ古い入間川扇状地の原形を残しており、そのうえに武蔵野砂礫層に相当する高麗川扇状地堆積物が薄くおおっていると考えることもできる。さきに述べた〝鶴ケ丘粘土層〟の謎も案外このような観点で解くことができるかも知れない。