過去の気候変化を示す資料

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鶴ケ島町内で、直接、過去の気候変化を示すと思われた花粉分析資料も、気候変化より人間の生産活動による植生変化を示すことになりそうである。しかし、すでに第一章で述べたように、鶴ケ島の地形・地質の生い立ちを考えるとき、第四紀にはいってからの海水面変動を考慮しないかぎり説明がつかない。また、海水面変動が氷河の消長に関係する以上、鶴ケ島の地形・地質そのものが過去の気候の産物ということになる。
 たとえば、高麗川の低地帯の地下にかくされている埋没谷は、今から約二万まえの第四氷河期(ウルム氷河期)のもっとも寒い時期に、海水面が現在より一〇〇メートル以上低下していたことの証拠でもある。東京下町で実施したボーリングの花粉分析の資料から、その当時の東京の気候は、現在の標高一、四〇〇メートルにある日光戦場カ原の気候に似た寒冷な条件であったと考えられている。東京の近郊にある鶴ケ島でもほぼおなじ条件であったとみてよい。
 木野崎千代子氏らの昭和三八年の報告によれば、比企郡玉川の田黒付近の台地に〝鶴ケ丘粘土層〟に似た灰白色の火山灰質泥があり、その下に植物の遺体を含む泥炭層が知られている。この地層を「田黒植物化石層」と呼んでいる。ここの花粉分析結果によると、現在では、標高一、〇〇〇メートル以上の高い山地でなくてはみられないヒメバラモミやブナの花粉化石が沢山発見されている。このことから当時の気温が現在より、三―五℃ほど低かったと推定している。
 田黒植物化石層の地質時代は、ほぼ下末吉時代にあたると考えられている。〝鶴ケ丘粘土層〟もほぼ同時代と考えられていること、また植物の破片が含まれていることなどの共通性がみとめられる。このことから、いまから一〇万年ほどまえの鶴ケ島の気候も、高尾山や奥日光に近い寒冷な条件であったと推定される。
 最近、狭山市の入間川の河床近くの崖から、アケボノゾウと思われる旧象の化石が一体分発見されたとの記事が、新聞紙上をにぎわした。この化石を含む地層は仏子粘土層に相当するものである。その近くの河床からは、昭和四九年にメタセコイアの化石林が発見されている。これらのことから、仏子粘土層の時代は、いまから約二〇〇万年まえの更新世のはじめ頃にあたるとともに、その当時の気候も、現在より少し暖かだったと考えられている。
 鶴ケ島でも地下深いところに、その地層の連続がみられることから、約二〇〇万年まえの鶴ケ島の気候は、現在よりもやや温暖だったと推定される。
 このように鶴ケ島をめぐる気候の変遷は、全世界的な気候変化と関連しており、一地域の問題としては取りあつかう範囲をこえている。またアカマツの二次林の成立の問題にみられるように、自然環境にあたえる人間の行為は、花粉化石の組成にも表現されるようになってきている。
  〔参考文献〕
青木滋・柴崎達雄(一九六六)海成 〝沖積層〟の層相と細分問題について、『第四紀研究』五巻、三―四号。

郷原保真・新堀友行・柴崎達雄(一九七二) 第四紀地質学からみた環境の変貌、『第四紀研究』一一巻、三号。

堀口万吉・永野巌・小林健助(一九七六) 東松山東部低地の古環境について、『埼玉大教養紀要(自然科学)』一二巻。

堀口万吉・角田史雄・清水康守・駒井潔・板東尋子・栗原陽子(一九七七) 関東平野西部入間川沿いに発達する仏子粘土層の再検討、『埼玉大教養紀要(自然科学)』一三巻。

木野崎千代子・小林厳雄・森由紀子・松山悠紀子・鈴木雅子(一九六三) 関東地方の第四紀植物群落(そのⅠ)、『地質学雑誌』六六巻、八一五号。