この雑木林と呼ばれる林は本来の自然の林ではない。古くからこの地に住みついた私達の祖先が、生活の知恵から作り出した、いわば人工の林である。この雑木林、現在では残り少なくなってしまったが、かつては鶴ケ島町に広く分布していた。
「雑木林」という言葉が文章の中で使われるようになるのは明治時代以後である。徳富蘆花は明治三三年に発表した『自然と人生』の中で雑木林の美しさを次のようにたたえている。
「余は斯(こ)の雑木林を愛す。木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、栗(くり)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。大木稀(まれ)にして、多くは切株より簇生(ぞくせい)せる若木なり。下ばえは大抵綺麗(きれい)に払ひあり、稀に赤松黒松の挺然(ていぜん)林より秀でて翠蓋(すいがい)を碧空(へきくう)に翳(かざ)すあり。……春来りて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄(どんこう)など和(やわら)かなる色の限りを尽せる新芽をつくる時は、何ぞ独り桜花に狂せむや。」
この文には、一つの切株から何本もの若い木が萌芽している様子がよく表われている。林床の手入れもよく行き届いているようだ。
また、国木田独歩は『武蔵野』の中で雑木林について次のように書いている。
「林は実に今の武蔵野の特色といっても宜い。則ち木は重(おも)に楢(なら)の類で冬は悉(ことごと)く落葉し、春は滴る計(ばか)りの新緑萌え出づる其変化が秩父嶺以東十数里の野一斉に行はれて、春夏秋冬を通じ霞に雨に月に風に霧に時雨に雪に、緑蔭に紅葉に、様々の光景を呈する其妙は一寸西国地方又た東北の者には解し兼ねるのである。」
雑木林は武蔵野の象徴でもあった。
では、これらの文章が書かれた明治時代、雑木林はどのように分布していたのだろうか。図―19に示したものは、迅速図をもとに作製した、明治二〇年(一八八七年)の頃の林の分布である。
図1-19 明治20年(1887)頃の林の分布
この図は、現在の鶴ケ島町に相当する地域のおよそ半分に雑木林や松林が広がっていたことを示している。雑木林は松林より多かったようだ。
集落は台地上に点在するが、列状村落の特徴である街道や用水路に沿って住宅が帯状に並んでいる様子がよく示されている。全域を大きく見ると、田や畑といった耕作地は南西から北東の方向にかけて帯状に分布し、その耕作地と集落を囲むように雑木林も同じ方向に分布している。高麗川扇状地(武蔵野面)の広がる方向が南西から北東であることを合せて考えると、地形の変化にうまくあわせた土地利用であるといえる。
それでは、この雑木林、なぜ全体の半分をしめるほどの広い面積に分布していたのだろうか。その理由は、雑木林のさまざまな効用を考察してみるとわかってくる。そのうちの一つは、防風林としての効用である。赤城おろし、秩父おろしといった季節風の吹きぬける台地上では、防風林が必要だった。上新田、中新田、高倉村などにその例を見ることができる。
その他、生活に必要な燃料を供給する薪炭林としての役割や、農地に肥料分を提供する農用林としての役割も重要であった。
農用林としての働きは、次のような自然界のしくみを上手に利用したものである。雑木林の植物は、光合成や窒素同化によって、炭水化物やタンパク質といった有機物をつくり出している。この有機物の蓄積によって雑木林は成長していく。一方、落ち葉や枯れ枝は、林床で徐々に腐りながら分解し栄養豊かな土壌をつくり出す。そして、この土壌中の栄養塩類は再び木に吸収されていく。このように、雑木林には物質を効率良く循環させるシステムが備わっている。
しかし、生産物をそこから一方的に取り出してしまう耕作地では、土壌中の栄養分は年々少なくなる。この栄養分の不足を補い、生産力を維持するため、雑木林の下草や落ち葉が肥料として利用された。雑木林が落葉樹林である理由はここにもある。
また、雑木林から持ちだされた薪や柴は、燃料としていろりやかまどで燃やされ、あとに残った木灰はカリウムやリンなどの無機養分の補給に用いられた。
この頃、農地は雑木林によって支えられていた。
昭和三〇年代に入り、燃料が石油中心の時代になると、雑木林のあり方は急激に変っていく。
まず、石油やプロパンガスの使用が一般的になると、薪炭林としての利用度が低くなった。さらに、化学肥料が普及すると落葉による肥料づくりも下火になった。このように経済的価値が徐々に小さくなるに従い、雑木林は放棄されることが多くなった。それまで、生活に密着していた雑木林はこの頃を境に、人々の生活から離れたものになっていった。
一方、利用されずに人手の加わらなくなった雑木林の構造は質的に変化していく。たとえば、コナラ林の場合、干渉の程度によって林床が次のようになる。人が絶えず落葉かきや下草刈りを行っている場合には、林床は裸地に近いか、ノガリヤス型といってイネ科の草本が優占する単純な型であった。しかし、放置された林にはアズマネザサが侵入し、林床がもっと暗くなると、耐陰性の強いシラカシやヒサカキなどの常緑広葉樹が優占するようになり、明るい林床はしだいに暗いやぶ状の林床に変わっていった。
ほぼ時を同じくして、大都市周辺では人口急増に対応するため、住宅地の供給、商業地の拡大など都市型の開発が進められていった。鶴ケ島町で開発が本格化するのは、しばらく後の昭和四〇年代に入ってからである。鶴ケ島町土地利用変遷の資料によると、昭和四〇年(一九六五)を基準にすると昭和五六年(一九八一)には宅地は約三倍に急増し、山林や耕作地は二〇~三〇パーセント減少している。宅地の増加分は林と耕作地からの転用によってまかなわれた。
図―20は昭和五六年(一九八一)頃の林の分布を示している。雑木林に相当する広葉樹林は小さな島状に点在し、かつて台地上に大きく帯状に分布していた林と比較すると、その面積は極端に小さくなっている。開発によって植生が壊されていったことを物語っている。農用林、薪炭林として使われなくなった雑木林を宅地などに変えていくことは、経済的価値を考え有効な土地利用を計る上から、当然のことであった。
図1-20 昭和56年(1981)頃の林の分布
しかし、いつでも身近にあった雑木林がなくなってみると、これらが単に経済的価値だけでなく、多様な価値を持っていることが明らかになってきた。
たとえば、教育的な価値である。森林にはさまざまな動植物が生息し、その生物達が互いに関連しあうことによって自然界は一つのシステムをつくっている。こういった事実を、自分達の体験を通して理解させるためのフィールドとして雑木林は格好の教材となる。
又、環境保全的な効果は多方面にわたるが、根本的には緑とそこに住む人々とが接触することによって、生活の快適さが向上するということである。
残された林は、その価値を見直されるようになった。
農地や林の中で宅地開発が行われた結果、都市周辺では、残された林、農地、住宅がモザイク状に配置することになり、調和を欠く景観が見られるようになった。そこで、農地、林と住宅の調和をはかり、快適な環境への整備を行うため様々な都市購造のモデルが提示されるようになった。
その中にクラインガルテン(市民農園)という方式がある。市街化区域内農地に構想した計画は次のようなものである。まず、全区域の七〇パーセントに農地を作り、一五パーセントに雑木林、その他の一五パーセントに共同使用の施設をつくるというものである。しかも、そこには落葉を使った肥料づくりの設備も考えられている。
この構想の中に、以前の雑木林と耕作地の関係を見ることができる。理想的な生活環境を具体化するために考え出されたシステムの原形は、ついこの間まで、ごく普通に見られた風景の中に備っていたことになる。
雑木林、耕作地、そして湧水、これらが住む人々と一体となったいわば鶴ケ島の原風景。これは自然と調和した生産システムだったと同時に、歴史的な「ふるさと」としての景観でもあった。
植生の破壊がさらに進もうとしている現在、『緑の森と清らかな流れ、豊かな自然こそ私達の二一世紀への遺産です。』というこの言葉が一層の重みを持って語りかけてくる。
〔参考文献〕
永野巌(一九八六)「埼玉の風土と森林」『新編埼玉県史』別編3自然。
永野巌(一九八四)『ふるさとの森づくり』埼玉県自然保護課。
宮脇昭(一九八一)『鶴ケ島町の植生』鶴ケ島町史編さん室。
平田久(一九八五)「鶴ケ島町の哺乳動物」『鶴ケ島研究2』。
足田輝一(一九七七)「明治のおもかげ」日本の名随筆21『森』作品社。
只木良也(一九八四)『森と人間の文化史』NHK市民大学。
津端修一(一九八二)「拡散する都市域と快適環境」『ジュリスト総合特集・都市の魅力』有斐閣。