氷河期には陸上に莫大な量の大陸氷が形成されるため、海面は温暖な間氷期に比べて九〇~一四〇メートル低下する。ウルム氷河期の日本列島は海退によって陸地面積が大きく肥大し、北端の北海道は樺太(からふと)を経てシベリア大陸と陸続きとなり、北海道と本州、本州と朝鮮半島を隔てる津軽海峡と朝鮮海峡はきわめて近接していた。こうした地球規模での列島の地理的環境の変化が、列島の人類移動の背景となっている。ウルム氷河期より一つ前のリス氷河期には列島が陸橋によって大陸と繋っていたことはナウマン象化石の発見によって立証されているし、ウルム氷河期において人類移住の一つの要因としてマンモスなどの草食獣の列島への移動があげられている。
鶴ケ島町にも足跡を残した旧石器時代人が活躍した関東ローム層は、下から多摩(たま)ローム、下末吉(しもすえよし)ローム、武蔵野(むさしの)ローム、立川(たちかわ)ロームの順に推積していったことが確かめられている。いずれも火山灰を中心とした推積層である。このうち、最上部の立川ローム層では、放射性炭素C14年代測定法で、最下層が約三万年前、最上層が一万二千年前という年代が与えられている、ローム層上の黒土は、ウルム氷河期からその後の間氷期に移り変る約一万年前以後、気候が温暖多雨となり、植物の腐植集積に好都合となった結果形成されたものである。
約二万年間以上続いた日本の旧石器時代には、サヌカイト、黒曜石、頁岩(けつがん)、チャートなどの石材を用いて、ナイフ型石器、石槍(せきそう)、彫器(ちょうき)、錐(きり)、石刃(せきじん)、石斧(せきふ)などの石器が作られた。いずれも直接打法あるいは間接打法によって形作られた打製石器(だせいせっき)であるが、石斧の中には打製以外に、刃部(じんぶ)のみに磨きを加えた局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)もある。石器の中で最も長期にわたって製作・使用されたのはナイフ形石器で、他の石器との種類と組み合わせ、ローム層中の出土層位によって、旧石器時代は第Ⅰ期~第Ⅲ期の三期に区分できる。
第Ⅰ期はナイフ形石器出現以前の時期で、石器としては縦長の石刃(せきじん)と礫(れき)(東京都野川(のがわ)遺跡)、ルヴアロア技法による石核(せきかく)と剥片(はくへん)(栃木県星野(ほしの)遺跡)、両面加工の石器、掻器(そうき)、剥片などがある。全国的には遺跡数はきわめて少なく、関東地方では立川ローム層の下位に属する。
第Ⅱ期はナイフ型石器が盛んに使われた時期で、関東から中部地方には茂呂(もろ)型ナイフ、信越から東北地方には杉久保(すぎくぼ)型ナイフ、西日本には国府(こう)型ナイフなど、地方色をもったナイフ型石器が現われた。石器製作技法の一つである石刃技法も進み、整った石刃核から石刃が剥離され、幾何学的な形をしたナイフ型石器が作られている。彫器(ちょうき)、掻器(そうき)、尖頭器(せんとうき)、錐(きり)などの定型的な石器が出揃い、石器を柄に着装する方法が一般化したり、局部磨製石斧が出現するのもこの時期である。年代的にも立川ローム第Ⅳ層から最上層までと長期にわたり、遺跡数も多い。埼玉県内ではこの時期から遺跡が発見され始める。川越市と鶴ケ島町にまたがる鶴ケ丘(つるがおか)遺跡もこの時期の遺跡で、縄文時代早期の土器、弥生時代後期の住居跡二二軒、歴史時代の住居跡二軒とともに旧石器時代のユニット一か所が発見されている。ユニットは直径約四メートルの範囲に集中する総数六四点の石器、母岩(ぼがん)、剥片(はくへん)で構成される。ユニット出土の石器にはナイフ形石器二点、石核二点、ブレイド状剥片五点などがあり、母岩と接合できるものがあった。ユニット外からも尖頭器三点、ナイフ形石器五点のほか、石核(せきかく)と剥片が検出されている。発掘調査されたのは川越市域だけであるが、遺跡の範囲は鶴ケ島町にも広がることが確認されている。
第Ⅲ期はナイフ型石器が消滅し、細石刃(さいせきじん)が隆盛をきわめる時期である。それまでの片面加工に替って両面加工の施された大型の尖頭器、礫器(れっき)、大形石刃が現われ、次の縄文時代草創期の石器群に類似する要素が見うけられるようになってくる。第Ⅲ期は旧石器時代終末期にあたり、縄文時代との関係が注目される時期でもある。
図2-1 旧石器時代の石器
旧石器時代は、縄文時代以後の時代と比べると、遺構と遺物の種類がきわめて乏しい。旧石器時代の遺構として確認されているもののほとんどは、石器や剥片が一定の範囲にまとまって出土するユニット、拳大の礫が集積した礫群、人頭大の大型の石がまとまった配石と呼ばれるものに限られている。ユニットの場合には、石器や剥片に加えて原石やこれを加工した石核が伴うことがあり、石器製作場の跡と考えられている。礫群(れきぐん)や配石(はいせき)の場合には、摂氏六〇〇度以上の火熱を受けた礫が含まれたり、タール状物質が付着する礫があることから、調理用の施設と考えられている。ユニットや集石遺構(しゅうせきいこう)は舌状台地(ぜつじょうだいち)の先端部に向って弧状に張り出すように配される場合もあり、その内側の遺構のない空白部が広場として利用されていた可能性の強いことも指摘されている。しかし、個々の遺構全てにわたってその性格が究明されているとはいえず、今後の科学的な分柝研究にまつ所が少なくない。
居住空間に関しても、栃木県星野(ほしの)遺跡で住居址らしい遺構が発見されている以外は、炉址が発見されている程度で、竪穴住居に類するものは発見されていない。洞窟や岩陰などの自然の遮蔽物(しゃへいぶつ)を利用して生活していたと考えられている。
遺物の種類も比較的単純で、長野県野尻湖湖底(のじりここてい)遺跡ではナウマン象やオオツノシカの骨とともに石器やナウマン象の牙骨を加工した物が発見されているものの、全国各地に存在する旧石器時代遺跡から発見されるのは石器のみの場合がほとんどを占めている。火山灰からなるローム層中では有機物の腐食が激しく痕跡としても残らないため、速断はできないが、石以外にもさまざまな有機質の日常用具が使われていた可能性が高いと考えられている。
図2-2 鶴ケ島町内遺跡分布図(旧石器時代)