縄文時代最古の土器は、口縁部に粘土粒を貼り付けた豆粒文土器で、長崎県泉福寺洞窟(せんぷくじどうくつ)最下層から、旧石器時代に流行した細石刃に伴って発見されたものである。器壁(きへき)は薄く、豆粒文以外には全く文様のない無文土器である。類品は新潟県壬(じん)遺跡や栃木県大谷寺洞窟(おおたにじどうくつ)にも見られるが、関東地方では他に例を見ない。
豆粒文土器の次に現われるのは隆線文系土器様式で、口縁部に粘土紐をめぐらせた隆線文土器と、隆線の細線化した微隆起線文土器がある。この段階になると九州から東北地方南部まで広範に分布する。この後には人間の爪あるいは半截竹管で文様をつけた爪形文土器様式が現われ、縄文を用いた多縄文系土器様式へと続く。
縄文時代草創期は土器を伴うものの、旧石器時代的様相を若干残しており、初期には洞窟や岩陰に居住する場合がほとんどのようである。関東地方では先にあげた栃木県大谷寺洞窟や埼玉県橋立岩陰(はしだていわかげ)遺跡がこの例である。しかし、年代が下るにつれて竪穴住居も出現し、草創期後半になると普及し始めている。埼玉県宮林(みやばやし)遺跡では一辺約三メートルの不整隅丸方形の竪穴住居址が発見されているのが、この時期の住居を知る手懸りとなる。鶴ケ島町内ではこの時期の遺跡はもちろん、遺物も発見されていない。
草創期の遺物全体を見ても、土器と石器以外の遺物に乏しいが、縄文人の精神文化を代表する遺物の一つである土偶が早くもこの時期に出現していることは注目されよう。愛媛県上浮穴郡美川村の上黒岩岩陰(かみくろいわいわかげ)遺跡出土の礫には刻線で女性像が描かれており、旧石器時代に旧大陸で作られた石や牙製のヴイーナスとの関係をうかがわせている。