住居形式としては竪穴住居が一般的となり、貝塚の形式が始まってくる。早期末から前期にかけて気候が温暖化し、海面が上昇して海進状態になり、東京湾は今よりも相当内陸部にまで入り込んでいたと言われている。こうした気候条件と地理的環境の変化が、関東地方に特に顕著に残された貝塚形成と深く係わっていたと言われている。貝の採取だけでなく、この時期には骨製の釣針や銛が作られ、漁網が使用されるなど、漁撈具が急激に発達していった。狩猟法も発達を見せ、弓矢が初めて出現するとともに、動物を狩るための陥し穴も掘られるようになっている。陥し穴の中には単に穴を掘っただけのものだけでなく、穴底に木や竹で作った槍を上向きに埋め込んだものもあり、効率をあげるための工夫がこらされている。身を飾るための装身具類もこの時期以後着用され、骨製笄(こうがい)、貝輪、さらにはタカラガイやイモガイを使った耳飾も残されている。
この時期になると埼玉県内でも遺跡数がふえ、鶴ケ島町でも雷電池東(かんだちがいけひがし)遺跡やその周辺、高徳神社(こうとくじんじゃ)遺跡、お寺山(てらやま)遺跡で、早期前葉から早期後葉にいたる撚糸文(よりいともん)系土器、沈線文(ちんせんもん)系土器、条痕文(じょうこんもん)系土器が発見されている。昭和五八年度に行なった埋蔵文化財包蔵地分布調査では、押型文(おしがたもん)系土器も採集されており、早期の土器群が一通り揃っている。
これらの土器は遺構外の包含層から出土したものが多いが、遺構としては焼土を含んだ炉址二七基、土壙二四基がある。土壙は陥穴で、緩傾斜部や池(沼)沿いの低地部に単独で堀られている。
図2-4 縄文時代の狩猟、漁撈具