第三節 前期

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 前期には羽状縄文(うじょうじょうもん)系の花積下層(はなつみかそう)式、関山(せきやま)式、黒浜(くろはま)式、諸磯(もろいそ)a・b・c式、十三菩提(じゅうさんぼだい)式の六型式の土器が作られた。このうち、前期前半の花積下層式、関山式、黒浜式の土器は胎土中に植物質繊維(せんい)を混和剤として含んでおり、繊維土器とも呼ばれる。縄文土器に多用される混和剤の尖兵ともいうべきものである。
 この時期以後、深鉢形土器は平底に定着する。それと共に注目されるのは器種構成に関して関東地方を中心に起った変化で、草創期いらい煮沸形態のみであった土器に、新たに供膳形態が加わってくる。この動きはとりわけ諸磯式に顕著であり、浅鉢、皿、台付鉢などが出現する。前期中葉に完成された煮沸形態と供膳形態とで構成される土器様式は、中期には注口土器を加え、晩期には多様な供膳形態の土器を生み出していく。
 この時期に起った新たな動きとしては、これ以外に、滑石製〓状耳飾(かっせきせいけつじょうみみかざり)と漆工芸の出現をあげることができる。パン状炭化物あるいはクッキー状炭化物と呼ばれ、縄文時代の粉食を示す食物遺存体が発見されるのもこの時期以降である。
 住居は台地の縁辺部に築かれ、地床炉を土器片で作ることも行なわれた。前期にはそれまで少なかった集落遺跡数が激増する。集落規模も大きくなり、広場を中心に竪穴式住居が環状や弧状に取り巻く環状集落や弧状集落が形成される。集落遺跡数激増傾向は前期後葉から中期初頭にかけてやや停滞するものの、中期中葉には再び増加し、人口動態の一様でないことを示している。
 鶴ケ島町では早期に引き続いてこの時期にも人々が活動していたようであり、前期中葉以後に属する黒浜式土器、諸磯式土器、十三菩提式土器が発掘調査や分布調査によって一〇か所で発見されている。遺構は未発見であるが集落のあったことはほぼ確実である。

図2-5 縄文時代の集落