第四節 中期

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 中期には、五領ケ台(ごりょうがだい)式、勝坂(かっさか)式、加曾利(かそり)E式の土器が作られた。勝坂式土器は東北地方南部に本拠をおく大木(だいぎ)様式の影響を受けて成立したもので、口縁の突起や装飾施文に隆線や彫刻的手法が駆使され、縄文土器の中でもひときわ華麗な土器型式となっている。この時期、利根川から霞ヶ浦一帯の地域には大木様式の影響を受けず独自に成立した阿玉台(おたまだい)式土器があり、西の勝坂式と対峙する形となった。
 中期は土器だけでなく、縄文時代の文化が最も栄えた時期であり、遺跡数も急激な増加を見せている。前期に定着の進んだ集落は中期には一段と大規模化し、中央の広場を囲んで竪穴住居址が弧状あるいは半円形に並んだ馬蹄形集落(ばていけいしゅうらく)を形成する。住居址内の炉は埋甕(うめがめ)炉が普及し、石囲炉(いしがこい)も現われる。終末期には床面に扁平な石を敷きつめた敷石住居(しきいしじゅうきょ)も作られるようになり、住居内に石棒を安置する風習も行なわれた。

図2-7 敷石住居

 早期から前期にみられた屈葬に習って伸展葬が出現したり、竪穴住居入口床面下に幼児の遺体を納めた甕を埋める埋甕が始まるのもこの時期であり、配石遺構や石棒の流行、抜歯習俗(ばっししゅうぞく)の開始とあわせて、縄文人の精神文化も中期を境に大きく変動する。
 全国的な遺跡増の傾向は埼玉県内でも同様であり、鶴ケ島町では雷電池周辺で中期初頭と前葉の阿玉台(おたまだい)式土器が検出されているほか、分布調査では阿玉台式土器、加曾利E式土器がそれぞれ一か所と一三か所あり、山田(やまだ)遺跡では加曾利EⅡ式後葉期の住居跡一〇軒、土壙一基、埋甕炉跡一基、埋甕二基が発掘されている。加曾利E式期の遺跡数の増加が注目される。土壙は貯蔵用の袋状土壙である。