第五節 後期

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 後期には称名寺(しょうみょうじ)、堀ノ内(ほりのうち)、加曾利B、曾谷(そや)、岩井(いわい)、安行(あんぎょう)などの型式の土器が作られた。この時期には中期末に始まった磨消縄文(すりけしじょうもん)が発達し、器壁がますます薄くなって文様も平面化し、曲沈線文や帯状文へと退化していく。土器製作技法にも変化が現われ、器面は黒色化し、器面のヘラ磨きと相まって光沢を放っている。器種構成では、煮炊用の大型深鉢に加えて、小型供膳形態が発達し、特に注口土器が急増している。
 貝輪、硬玉製勾玉、乾漆櫛、土製耳飾などの装身具類も豊富で、土偶に小形土偶、木菟土偶が現われる。中期末に始まった抜歯の風俗もこの時期に盛行し、成人人骨の殆どに見られるようになっている。石棺墓が定着するのもこの時期であり、生活風習が複雑化している。

図2-6 縄文時代の装飾具

 鶴ケ島町内には後期の遺跡として、お寺山遺跡、雷電池東遺跡などから土器が検出されているほかに、分布調査では一三か所で後期の土器が採集されている。もっとも多いのは堀ノ内式で、曾谷式と岩井式は発見されていない。
 埼玉県ではこの時期には遺跡数が著しく減少し、遺跡分布も県東南部の北足立、埼玉地区に集中し、入間、比企以西の内陸部は稀薄となると言われている。しかし、鶴ケ島町に限れば、中期とあまり変らない状況と言える。