晩期には安行Ⅲ、千網(ちあみ)、荒海(あらみ)などの型式の土器が作られた。このうち、前葉から中葉にかけて、埼玉県は独自な安行文化圏を形成している。
この時期には土偶、土版、石剣、石棒、独鈷石など、精神文化の発達を示す遺物が豊富なのに比べて、遺跡数は全国的に急減する。
鶴ケ島町のある埼玉県内でも、後期からの遺跡減少の傾向がさらに進み、県内全域でも五〇か所余りを数えるにとどまる。かつ、遺跡のほとんどが晩期でも前半期に集中することは、後半期にはほとんど遺跡が発見されないことを示している。
後期から始まる遺跡数減少化の理由の一つには、平地住居への変化とともに、遺跡の沖積平野への移動があろう。大宮市の寿能(じゅのう)遺跡は中期から晩期にわたる複合遺跡であるが、ここからは漆器や木製品が発見されている。低湿地に営まれた遺跡の一典型であろう。
縄文時代は基本的には狩猟・採集社会である。しかし、そこには大自然に生きる知恵が随所に生かされており、自然の恵みを余すところなく、また乱獲による資源涸渇をきたすことなく利用した姿がうかがわれる。晩期末の西日本では水稲農耕への胎動が始まっているが、関東地方へ農耕文化が流入してくるのは、次の弥生時代中期である。