弥生文化が最初に流入したのは北部九州であり、九州縄文時代の晩期終末を飾る山ノ寺(やまのてら)、夜臼(ゆうす)式土器や弥生時代前期初頭の板付(いたつけ)式土器に伴って、水田の址が発見されている。
弥生文化には北方的な要素と南方的な要素が混在している、しかし、弥生文化の故郷を決める最も重要な鍵は米の品種であろう。弥生時代の米は、日本の今日と同じジャポニカと呼ばれる短粒種である。日本より古くから稲作を行っていた中国では、紀元前五千年前に位置付けられる浙江省河母渡遺跡から、骨製鋤や木製農具、石庖丁と一緒に大量の炭化米が出土しており、これを最古として、中国各地で炭化米が発見されている。中国出土米のうち、弥生時代と同じ短粒米が分布するのは北方の華北であり、華中から華南の遺跡で発見されているのはインディカと呼ばれる長粒種である。
朝鮮半島発見の古代米も短粒種であり、日本の米は北部中国から朝鮮半島を経て伝えられたと考えられる。ただし、古代米研究の権威佐藤敏也氏によれば、飛鳥時代や奈良時代の米の中には一部長粒種があるとされ、南方からの稲も入っている。
水稲耕作と並んで、弥生文化のもう一つの特徴をなすのは、金属器の使用である。弥生時代の遺跡から最も多量に出土する金属器は青銅器で、銅剣、銅鉾、銅戈などの武器や銅鏡が朝鮮半島よりもたらされ、後には日本国内で生産が始まっている。日本独特の青銅器である銅鐸が作られたのもこの頃で、青銅器を作るための鋳型が、九州や畿内で発見されている。
こうした青銅器とともに使われていたのは鉄器であり、中期以後に属するものが殆んどであるが、前期にまで溯るものもある。宝器あるいは祭祀(さいし)具としての性格の強かった青銅器に比べて、鉄器は斧(おの)、〓(やりかんな)、刀子(とうす)など、全て実用的な工具類であり、これらは木工技術に威力を発揮した。弥生時代の木工技術は高く、木製容器を作るのにロクロも用いられていた。
弥生時代の鉄器は青銅器に比べて量的にきわめて少ない。その理由としては、宝器としての性格の強かった青銅器の場合、島根県荒神谷(こうじんだに)遺跡のように多量に一括埋納されたり、甕棺(かめかん)に副葬されることが多かったのに対して、実用の器であった鉄器の場合には磨り減るまで使いきられたことがあげられる。
金属器を伴った水稲農耕文化は、日本列島に単に経済体系の変化をもたらしただけでなく、精神文化面でも革命的とも言うべき変貌をなしとげ、土偶、土版、石棒その他縄文文化に特有な呪術儀礼具を廃絶し、鏡や銅鐸、銅剣を祭具とする新たな祭式を生み出していった。
図2-8 弥生時代の農工具