第一節 弥生時代の生業

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 弥生時代の生業の中心は農業である。しかも、水稲耕作に付随するさまざまな技術やこれを支える道具が部分的に伝わったのではなく、これらが完結した技術体系として入ってきた所に最大の特徴がある。これは、技術と知識を備えた人間が直接北部九州にやってきたことを示している。
 弥生時代の農具には、鋤(すき)、鍬(くわ)、又鍬(またぐわ)、ふぐし、フォーク状木器、えぶり、大足、田下駄、田舟、石庖丁、鎌などがある。鋤、鍬、又鍬は開墾や田おこし、ふぐしは除草や種まき時の土掘り、フォーク状木器は肥えかきや脱穀、えぶり、大足は代(しろ)かき用具として用いられた。田下駄と田舟は最近まで水郷地帯の泥湿田で使われていたように、歩行、運搬の道具、石庖丁と鎌は収穫具である。
 弥生時代の農具は石庖丁と鉄鎌を除いて、全て木製品である。また、その形態は今日の鉄製農具とほとんど変らない。これは今日の農具の停滞性というより、弥生時代の水準の高さを示すものであり、古墳時代以後も引き続き用いられていった。唯一、古墳時代以後の農業に伝わらなかったのは石庖丁である。
 石庖丁は朝鮮半島から中国大陸に広範に分布する収穫具で、穂摘みに用いられた。稲の収穫法は基本的に穂だけを摘み取る穂摘みと、根元から刈り取る根刈りとがある。前者に用いられたのが石庖丁であり、後者には鎌が使われる。この収穫法の相違は稲の品種の相違と対応する。原始的な稲は株毎に完熟期が異なり、かつ、稲穂からの実離れが早い。このような稲では水田全体を一斉に刈り取る根刈りの方法は不可能であり、熟した稲穂のみを選びながら摘み取るのが最適の方法で、東南アジアには今もなおこの方法の残っている所がある。根刈りが可能となるためには、水田全体の稲がほぼ同時に完熟するという、品種改良がなされねばならなかった。
 登呂(とろ)遺跡をはじめ、弥生時代の水田には割り板を使って水路を作り、整然と区画したものが多い。特に水路の発達は著しい。その最大の理由は弥生時代の水田が河川流域や湖沼周辺の低湿地に設けられたことにある。弥生時代の木製農耕具では乾いた固い土壌の開墾は不可能であり、低湿地が水田として選ばれた。低湿地を水田にする為には灌漑よりもむしろ排水が必要で、弥生時代の水路の多くは排水用の水路としての機能を果たしていたと考えられる。

図2-9 登呂遺跡の集落と水田

 水路の矢板を作る為には、大型蛤刃石斧などの石器が用いられた。金属器があったといってもそれは工具類の中では微々たるものであり、工具類の主体を占めていたのは石器である。大型蛤刃石斧で伐採した木材を割って板にするのには楔が用いられ、割れ面を削って滑らかにしようとする時には抉入石斧や扁平片刃石斧が使われた。こうした木工技術は竪穴住居や高床倉庫を建てる時にも用いられた。
 弥生時代には農業だけでなく、狩猟、漁撈も重要な生業であり、織物技術も普及した。
 狩猟具としては、弓、矢、槍、投弾がある。銅鐸の中には弓矢で猪や鹿を狩る絵があり、弥生土器にも鹿の絵を描いたものが見られる。弓は木製で、矢鏃は石や骨角、まれに青銅、鉄で作られたが、打製の石鏃が最も多く、槍も石製である。投弾は長径三センチメートル程度のラグビーボール状をした土製品である。中国漢代の画像石には投弾を弓で飛ばして鳥を打っている姿が描かれており、直接手で投げる以外にこうした方法がとられる場合があったかもしれない。
 漁撈具には、銛、釣針、擬餌、たも網、網錘、蛸壺などがある。蛸壺は別として、縄文時代と大差ない漁撈法といえるが、銛や釣針の中に角製品に混ってわずかながら鉄製品の加わるのが新しい要素である。
 弥生時代に大きな進展を見せるのは織物技術である。縄文土器の底に布目の痕跡を残すものがあり、縄文時代晩期には織物が作られていたようであるが、弥生時代になると紡織技術が普及し、〓(かせ)を手に持って糸巻きする姿が銅鐸にも描かれている。
 紡織具としては、糸を紡ぐ紡錘車(ぼうすいしゃ)、経糸に緯糸を通す貫(ぬき)、緯糸を打ち込む刀杼(とうひ)、出来た布を巻き取る千巻のほか、綜棒(そうぼう)、縢などが発見されている。石、土、鉄で作られた紡錘車のほかは全て木製であり、登呂遺跡出土の刀杼には経糸とすれて出来た細い条痕が残されている。