第二節 集落と墳墓

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 台地上の比較的高い場所に集落の作られることの多かった縄文時代と異なり、弥生時代には水田近くの低地に集落が形成された。
 弥生時代の住居には竪穴式住居と平地式住居とがある。平地式住居は地表面を床面とし、周囲に土堤と排水用の溝をめぐらせ、屋根を葺くもので、形態的には竪穴住居に近い。竪穴式住居、平地式住居ともに縄文時代いらいの伝統を引くものであるが、圧倒的に多いのは竪穴式住居である。しかし、これは平地式住居が構造的に後世の破壊、削平を受けやすく、検出しにくいことにも原因があり、水田近くの集落では住居内への浸水を防ぐためには欠かせない住居形式であり、実数としてはかなり普及していたと考えられる。
 住居とともに集落内には貯蔵施設として高床倉庫や貯蔵穴が作られ、飲用水を得るための施設として井戸も掘られた。
 高床倉庫は地上高くに床を張った掘立柱建物で、屋組は切妻(きりづま)型に葺かれ、棟の両端には棟持柱(むねもちばしら)が立つ。身舎(もや)の中通りにも柱の立つ総柱(そうばしら)で、一間四方あるいは梁行(はりゆき)二間(ま)、桁行(けたゆき)三間程の規模が普通である。鼠(ねずみ)の害を防ぐため、柱の床と接する部分には鼠返しが取り付けられ、出入り用の梯子(はしご)も取り外し可能となっていた。
 貯蔵穴は地下に掘られた袋状の土壙で、縄文時代からあるものである。住居外に作られるのが一般的であるが、小規模なものは屋内に作られることもあり、杉皮などで屋根が葺かれた。
 高床倉庫が古墳時代以後も倉庫建築として残り、奈良時代の正倉院がこの型式を引くものであるのに対し、貯蔵穴は弥生時代を限りに消滅する。
 井戸は弥生時代になって作り始められた施設で、素掘りの井戸に加えて、太い丸太をくり抜いて井筒としたものや、数本の杭に葦を編みつけたものもあった。
 住居、倉庫、井戸、広場からなる集落は、環濠で区切られることが多く、十数軒から数十軒の住居群で構成される母村と、わずか数軒の住居で構成される子村とがある。母村は広大な低湿地を背後にひかえた土地に形成される場合が殆どで、子村は谷奥などに多い。開拓が進められていく姿を反映したものであろう。
 こうした集落の近辺には墓地が作られた。弥生時代には、甕棺墓、土壙墓、箱式石棺墓、支石墓など、さまざまな埋葬法が行なわれた。関東地方から東北地方南部にかけては一度埋葬した人骨を採集し、甕に納めて再度埋納し直す再葬墓(さいそうぼ)が行われたが、全国的規模で盛行したのは方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)である。
 方形周溝墓は方形を呈する墓の四方、あるいは周囲に溝を設け、墓域を区画したもので、溝を掘った時の土などを盛り上げて高くしている。この墓制は弥生時代前期に畿内で発生した後、九州から東北地方南部にまで広がっていった。関東地方でも弥生時代中期になると方形周溝墓が出現する。その好例は神奈川県歳勝土(さいかつど)遺跡で、中期から後期にかけて営まれた大集落跡と谷一つ隔てた丘陵上に大方形周溝墓群が形成されている。鶴ケ島町内では未発見であるが、埼玉県内では弥生時代中期から古墳時代前期にかけて各地で方形周溝墓が作られており、坂戸市花影(はなかげ)遺跡では弥生時代後期中葉、川越市霞ケ関遺跡では弥生時代後期から古墳時代初頭にかかる方形周溝墓が発見されている。これらの方形周溝墓には、ガラス玉や管玉などの玉類や、銅鏃、鉄剣を副葬することも行なわれた。

図2-10 方形周溝墓(神奈川県大塚・歳勝土遺跡)

 方形周溝墓の影響を受けて、弥生時代後期に日本海側の山陰地方から北陸地方で特殊な発達を遂げたのが四隅突出型墳墓で、岡山県吉備地方を中心とした地域では墳丘墓と呼ばれる墳墓が発達した。四隅突出型墳墓や墳丘墓では、盛土や地山(じやま)整形によって墳丘が高くなり、墳裾部に貼石をするなど、古墳との類似性が強まっている。
 弥生時代を通じて、さまざまな埋葬法がとられ、副葬品として鏡や玉類、剣が棺内に納められ、墓上に土器を供献することも行なわれた。同じ一つの墓地の中でも、副葬品の豊富な墓と全く副葬品をもたない墓が存在し、貧富の差や階層の差が発生したのも弥生時代の特徴である。しかし、その差は絶対的なものとはなり得ず、首長やその眷族といえどもまだ共同体(村)の一員としての性格を有していた。首長が共同体から隔絶し、人民を使役して壮大な墓を築くようになるのは、次の古墳時代に入ってからである。