中期

119 ~ 120
四世紀末から五世紀中頃までの中期には、前方後円墳が巨大化し、古墳への鉄器の大量副葬が行なわれた。巨大古墳群は大和をはなれ、応神天皇陵古墳を盟主とする古市古墳群や仁徳天皇陵古墳を盟主とする百舌鳥古墳群が河内平野に築造された。
 前方後円墳は平野部に盛土をもって築かれるようになり、周囲には満々と水を湛えた周濠が二重、三重、時には四重に巡らされ、外界と截然と区画される。さらにその外側を兆域(ちょういき)と呼ばれる区域がとりまき、兆域の内外に培冢(ばいちょう)が築かれるのもこの時期の特徴である。前方部は後円部に匹敵する幅と高さをもち、前方部と後円部のくびれ部の片側あるいは両側に造り出しと呼ばれる方形の祭壇をもつものも現われる。葺石と埴輪で墳丘を飾ることも行なわれたが、墳丘の巨大化に伴って、一つの古墳に並べられる埴輪の数は飛躍的にふえ、仁徳天皇陵古墳の場合には二万本以上の円筒埴輪が必要であったと計算されている。
 内部主体には竪穴式石室が用いられたが、前期からの割竹形木棺に加えて、割竹形石棺、舟形石棺、長持形石棺などの石棺が加わった結果、竪穴式石室は縦が短かくなって、正方形に近い形をとるようになった。また、竪穴式石室を構築せず、木棺や石棺を直接土中に埋める方法もとられた。
 中期古墳の副葬品には画像鏡(がぞうきょう)や画文帯神獣鏡などの舶載鏡や小型〓製鏡もあるが、もっとも特徴的なものは鉄製武器、武具類や鉄〓などの鉄製品の大量副葬と滑石製模造品の出現である。
 応神天皇陵古墳陪塚(ばいちょう)の大阪府野中アリ山古墳から総数三〇〇〇点近い大量の鉄製武器、農工具が発見されている。大阪府黒媛山古墳では前方部に作られた副葬品埋納用の石室から、短甲二四領、衝角付冑一一個、眉庇付冑一三個が検出されている。鉄製品の原料となる鉄〓も重要で、ウワナベ古墳陪塚の奈良県大和六号墳には、鉄〓だけでも大形鉄〓二八二枚、小形鉄〓五九〇枚が副葬されていた。
 前期とは比較にならないほど厖大な量であり、しかもこれらの古墳が畿内の大古墳群に集中することは、原料の入手から加工までの全ての過程にわたって、畿内の大王権が密接に関係していたことを示すものであろう。
 滑石製模造品は、武器(剣、鏃、甲、盾)、農工具(斧、〓、鏨、鑿、刀子、鋤、鍬、鎌)、服飾具(鏡、勾玉、臼玉、櫛、下駄)、什器(坩、甑、坏、盤、槽、案、臼、杵、箕)、紡織具(紡錘車、梭、筬、縢、腰掛)などの模形を滑石で作った小型品で、本来副葬すべき器物を仮器で代用しようとするものである。前期古墳にも副葬されるが、数一〇〇個以上を一度に副葬するようになるのは中期の特徴である。