後期

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中期初頭の四世紀末ないし五世紀初頭に北部九州で発生した横穴式石室は、竪穴式石室に替る墓制として、五世紀中頃以後全国的に普及する。この五世紀中頃以後が後期である。
 横穴式石室は竪穴式石室に比べると構築に手間がかかるものの、一度作ってしまうと、次々に追葬ができる利点をもっている。しかし、横穴式石室が採用された結果、横穴式石室を後円部中央に構えるために、前方後円墳の後円部は徐々に小型化していく。一方、前方部はそのままの大きさを保とうとするため、相対的に前方部が後円部よりも大型化してしまう。前方後円墳そのものも小型化し、ほぼ六世紀を以て消滅する。これに替って大王陵に採用されたのが方墳である。
 前方後円墳や大型の方墳では石室が巨大化する傾向にあり、七世紀初頭に作られ、蘇我馬子の墓に比定される奈良県石舞台古墳では巨石を使った壮大な石室が残されている。七世紀第二・四半世紀にはそれまでの自然石利用の石室に替って切石を用いた横穴式石室が出現し、やがて高松塚古墳のような切石積石槨式石棺を生み出して行く。
 大型墳とは別に、直径一〇メートル内外の小円墳が群集した群集墳が形成されるのも、後期の特徴である。群集墳の形成は六世紀以後とみに拍車がかかり、各地に「千塚(せんづか)」と呼ばれるような古墳群が作られる。首長墓に比定されるこの時期の前方後円墳や大形の円墳に比べると、副葬品もきわめて貧弱で、金環や須恵器(すえき)をわずかに含むものが大多数である。これは共同体的な規制が崩れたために、自立した家父長制的家族層にまで古墳築造の風が拡大した結果と考えられている。これを支えた背景には農具鉄器化による農業生産力の強化と、手工業生産の発達がある。
 
 古墳時代後期の古墳の型式の特徴の一つに装飾古墳と横穴がある。装飾古墳は横穴式石室の玄室や羨道部に赤や白の顔料をもって絵を描いたもので、九州地方で発生した後、各地へと波及していった。絵の内容には直孤文や三角形文、円文などの幾何学的な文様の他に、人物、馬、船、竜、鳥、翳などを描いたものがある。福岡県竹原古墳では、人物と馬の乗った船のへ先に鳥が一羽描かれており、死者を黄泉の国へと先導する天鳥船(あまのとりふね)伝説や倭建命(やまとたけるのみこと)が亡くなった後に命の墓から西へ西へと飛び去った白鳥伝説とも関係するものとも考えられている。玄室内を彩色によって飾る風習は横穴式石室消滅後も、横穴に受けつがれている。
 横穴は畿内を除く全国各地に見られる葬法で、丘陵斜面に直接玄室と羨道を掘り抜いたものである。通常、複数で群をなし、埼玉県吉見百穴遺跡のように数一〇から一〇〇基近く群集する場合もある。横穴内部には棺台をしつらえるだけで、装飾を施さないのが普通であるが、福島県浜通(はまどおり)地方では七世紀に入っても赤色顔料で飾る風習が行なわれている。
 後期古墳の副葬品には挂甲や鉄剣などの武器、武具類もあるが、もっとも特徴的なのは馬具と須恵器の副葬である。馬具は中期からすでに一部で副葬されていたが、後期になると全国的な普及を見せる。それも、中期以前のように馬具の一部を副葬する方法と異なり馬具一揃いを副葬するようになったことは、挂甲の普及とともに乗馬の風習が広く行なわれていたことを反映している。
 後期の馬具には鉄地金銅張りのように、随所に金銅が使われている。この時期の渡金、細金細工、象嵌技術の発達はめざましく、馬具を飾りたてるだけでなく、冠帽、垂飾付耳飾、帯金具、飾履、太刀などにも金銅が使われている。
 須恵器の大量副葬も後期古墳の特徴である。須恵器はもともと朝鮮半島南部で新羅焼(しらぎやき)を焼いていた土器工人が渡来して生産を始めた焼き物であり、中期古墳の中には半島からの舶載品を竪穴式石室に副葬することも行なわれた。しかし、この段階ではきわめて貴重品扱いされ、数も少なかった。これを変化させたのが国内での生産開始であり、大阪府陶邑(すえむら)古窯址群で生産が始まった五世紀中頃以後、入手しやすくなった国内産須恵器を横穴式石室に大量に副葬するようになった。
 以上のように、新たに始まったものがある一方、中期までさかんに行なわれていたもので、この時期に消滅した副葬品に鉄製農工具類がある。このことは、鉄製農工具の所有がそれほど誇示すべきものでなくなったこと、換言すれば、鉄製農工具が広範囲に普及していたことを物語っている。

図2-12 古墳時代の武器・武具