第二節 生産の発達

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 古墳時代の生産技術は、弥生時代に比べると格段に進歩した。農具、木工具、狩猟具、漁撈具など、全てにわたって生産用具が鉄器化されたことが最大の理由としてあげられる。
 農業に関して言えば、鉄製農工具の改良と普及が農業生産を高める原動力になった。とりわけ威力を発揮したのは五世紀中頃に出現したU字形鋤先である。それ以前の鉄製鋤先が鉄板の両端を折り曲げただけの簡単な構造であったのに対して、U字形鋤先は木製鋤の刃先全体を密着して覆う構造をもっており、今日の円匙とほとんど変らないほど進んだものであった。鉄製農具の普及によって可耕地が一挙に拡大した。固い地盤の丘陵や平地に古墳を築くためにも、土掘り具としての農具の改良が古墳を作らせる側でも必要であり、これが農具改良の一つの原因ともなったのである。
 古墳時代の農業技術の変化は収穫法にも現われた。石庖丁は姿を消し、鉄製鎌のみになる。ただし、これによって直ちに根刈り法へ変ったかどうかは、なお検討の余地を残している。
 古墳時代になって新たに始まった窯業の一つに須恵器がある。須恵器は古墳時代中期の五世紀中頃に、朝鮮半島から渡来してきた工人によって始められたもので、ロクロによる成形と窯による高火度焼成という、それまでの日本にはなかった全く新しい技術体系をもっていた。日本で最初に須恵器生産が始まったのは大阪府陶邑(すえむら)古窯址群であり、これより以後、平安時代まで、須恵器生産の中心地として陶邑は栄えた。
 大和の大王権の保護と支配を受けて陶邑に始まった須恵器生産はやがて各地へと波及していく。第一の波及は五世紀末~六世紀初頭におこり、埼玉県桜山(さくらやま)窯址でもこの頃に須恵器生産が行なわれた。しかし、この時期の地方窯は長続きせず、操業が短期間で終るものがほとんどである。第二の画期は七世紀初頭に起こり、八世紀になると全国的に須恵器生産が定着していく。
 須恵器生産の開始は土師器(はじき)にも影響を与えたが、埴輪生産にも大きな変化を与えている。
 埴輪はもともと弥生時代後期の岡山県吉備(きび)地方で、墳丘墓に供献するために特殊な発達をした特殊器台形土器が円筒埴輪に転化したものである。殉死にかえて土で種々の形を作り、古墳に並べたのが埴輪の起源であるとする日本書紀の埴輪起源説話はあたらない。
 古墳に樹て並べられた埴輪には、円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、器財埴輪、人物埴輪、動物埴輪などがあり、西日本で衰退した後も、群馬県を中心に関東地方で盛行する。
 埴輪の焼成は古墳時代初期から窯を用いず、平地で野焼きされていた。ところが須恵器生産が初まると埴輪の焼成に須恵器窯と同じ構造の窯が用いられるようになる。埴輪窯は西日本ではきわめて少例しか知られていないが、関東地方には多く、埼玉県内でも数か所発見されている。埴輪の焼成に窯を用いるようになった結果、それまでの埴輪に見られた黒斑が消滅する。黒斑の有無は窯で焼いたか否かを判定する上で重要な基準となっている。