第三節 鶴ケ島の古墳時代

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 畿内を中心に発達した古墳文化は全国的に波及していく。関東地方へは内陸部を通る後の東山道と、太平洋沿岸部を結ぶ東海道の二つの経路を経て古墳文化が流入してきた。東山道ルートを通じていち早く古墳文化を受け入れたのは群馬県を中心とする毛野(けぬ)の一帯であり、埼玉県内へは毛野を媒介として古墳文化が伝えられた。その内容は後期の横穴式石室の中に三味線胴形などと呼ばれ、玄室側壁に胴張りをもち平面円形に近い特異な形式の古墳が現われることを除いて、古墳の形態、内部主体、副葬品、墳丘装飾のいずれをとっても畿内の古墳と大きく異なる所はない。
 県内初期の古墳とされる東松山市大谷の雷電山(らいでんやま)古墳は丘陵上に位置する全長七六メートルの前方後円墳で、墳丘外面には葺石を施し、後円部墳頂には円筒埴輪を方形に樹て並べた方形埴輪列を巡らし、壺形土器の座部に孔をあけた底部窄孔土器も発見されている。雷電山古墳と同じく五世紀前半に築造された円墳の樋川市川田谷の熊野神社(くまのじんじゃ)古墳では、粘土床に石釧、巴形石製品、筒形石製品、石製紡錘車、筒形銅器、勾玉、管玉、ガラス小玉が副葬されている。この時期には畿内で顕著となった古墳の巨大化、大型化と軌を一にするかのように、全長一一五メートルの前方後円墳、東松山市野本将軍塚(のもとしょうぐんづか)古墳が築かれている。
 しかし、埼玉県内で大規模な前方後円墳が築かれるようになるのは古墳時代後期になってからで、六世紀から七世紀にかけて、全長一二八メートルで周濠をもつ行田市二子山(ふたごやま)古墳、全長一一二メートルの同、小見真観寺(おみしんかんじ)古墳などの大古墳が作られた。五世紀代に有力な古墳が築かれた東京都多摩川中・下流域では、この時期には顕著な古墳が見られず、旧武蔵国内での権力中枢が南武蔵から北武蔵へ移っていったことをうかがわせている。とりわけその中心となったのは行田市埼玉の埼玉(さきたま)古墳群である。
 埼玉古墳群は八基の前方後円墳と円墳一基からなる古墳群で、丸墓山(まるはかやま)古墳は円墳ながら直径約一〇〇メートルの大円墳で、東日本最大の規模を誇っている。全長一二〇メートルの前方後円墳で二重周濠(しゅうごう)をもつ稲荷山(いなりやま)古墳の礫槨(れきかく)から鏡、玉(ぎょく)、挂甲(けいこう)、刀(かたな)、剣(けん)、鉾(ほこ)、鏃(ぞく)、轡(くつわ)、鈴杏葉(すずぎょうよう)、環鈴(かんれい)、鞍(くら)、刀子(とうす)、斧(おの)、〓(やりかんな)が出土し、このうちの鉄剣に雄略天皇を指す「ワカタケル」以下一一五字が金象嵌(きんぞうがん)されていることが発見されたことは、埼玉古墳群に葬られた首長と畿内の王権との緊密な関係を雄弁に物語っている。また、全長九一メートルの将軍山(しょうぐんやま)古墳では墳丘(ふんきゅう)に人物埴輪を配し、かつて横穴式石室から発見された環頭太刀(かんとうたち)、銅鋺、金銅製馬具、鉾、兜(かぶと)、挂甲、鏡、馬鈴、鈴、玉、金製勾玉(きんせいまがたま)、金製平玉(きんせいひらたま)、銀製丸玉、金環(きんかん)、蛇行状鉄器、鉄鏃(てつぞく)、直刀(ちょくとう)などは、畿内の副葬品と比べて遜色がない。

図2-13 稲荷山古墳鉄剣

 関東地方では前方後円墳の築造は七世紀前半で終り、前方後円墳に替る首長墓として方墳が採用される。こうした前方後円墳や方墳などの首長墓とは対照的に広範に築かれたのが群集墳と呼ばれる小円墳群や横穴で、七世紀前半には関東地方一円に普及している。鶴ケ島町を含む旧入間郡地域に古墳が多数作られるのもこの頃である。

図2-15 鶴ケ丘古墳全体図

 鶴ケ島町には現在古墳(一部は塚の可能性もある。)として残っているものは、痕跡を留めるものを含めて、前方後円墳二基、方墳三基、円墳二四基がある。鶴ケ島町近辺では川越市域と坂戸市域にも古墳が濃密に分布している。川越市域はこのあたりでも最も早くから古墳築造が始まった地域であり、古墳時代前期に位置付けられる三変稲荷神社(みがわりいなりじんじゃ)古墳から碧玉製石釧(へきぎょくせいいしくしろ)と神獣鏡(しんじゅうきょう)が発見されている。しかし、鶴ケ島町一帯で盛んに古墳が作られるようになるのは後期であり、横穴式石室をもつ小円墳群が次々に築造されている。この間、前方後円墳も川越市域で二基、坂戸市域で八基造営され、川越市域では上円下方墳という特異な形式の古墳も一基見つかっている。古墳築造という点では坂戸市域に優位性が認められるものの、この一帯最大の方墳が鶴ケ島町にある。大字鶴ケ丘富士見台にある鶴ケ丘稲荷神社(つるがおかいなりじんじゃ)古墳がそれで、かつては円墳と考えられていたが、土地区画整理事業に伴って昭和五八年から五九年まで発掘調査された結果、凝灰岩切石を用いた羽子板状の横穴式石室をもつ方墳であり、周溝をもつことが明らかとなった。周溝は古墳の周囲を一周せず、断続的に跡切れているが、ほぼ長方形に巡っている。墳丘は後世の削平のため遺存状況は必ずしも良好でないが、墳丘裾部と石室前方の前庭部には拳大の河原石が幅広い石列となって墳丘上を巡っている。石室は全長四・五三メートルで、奥室(おくしつ)と前室(ぜんしつ)に分かれ、奥室長二・五八メートル、前室長一・九五メートルで、奥室最大幅二・四〇メートル、玄門(げんもん)幅一・七五メートル、羨門(せんもん)幅一・五一メートルである。玄室(げんしつ)内には拳大の河原石が隙間(すきま)なく敷きつめられ、奥室中央には主軸方向に緑泥片岩(りょくでいへんがん)を並べて棺座(かんざ)がしつらえてある。また、奥室と前室との境には緑泥片岩の一枚石を立てて框石(かまちいし)とし、閉塞(へいそく)されていた。
 羽子板状(はごいたじょう)の石室は埼玉県内では他に二例が知られている。構築法の細部ではそれぞれ多少趣を異にしているものの、共通する要素が多い。
 鶴ケ丘稲荷神社古墳で問題となるのは墳丘の規模と構築法である。墳丘規模は、墳丘裾部を巡る石列で計ると東西二〇・五メートル、南北二一メートル、周溝内法(しゅうこううちのり)で計ると東西四〇メートル、南北五三メートルとなる。この古墳は七世紀後半の築造とされているが、この時期にこれだけの規模をもった古墳は鶴ケ島町近辺では他に見られない。墳丘の構築法では、盛土の際に版築(はんちく)の工法がとられている。版築の技法は六世紀末に寺院建立に伴う技法として朝鮮半島から我が国にもたらされたものであり、畿内でも七世紀前半以後、方墳や八角形墳の築造技術に取り入れられている。版築という朝鮮半島から伝わった大陸系の技法が鶴ケ丘稲荷神社古墳に採用されている点はきわめて重要である。
 鶴ケ丘稲荷神社古墳の南西約二〇〇メートルには鶴ケ丘一号墳がある。鶴ケ丘一号墳は自然石乱石積みの両裾型横穴式石室(りょうすそがたよこあなしきせきしつ)をもつ古墳であるが、これにも寺院建築に特有な版築と掘り込み地業(じぎょう)が行なわれている。七世紀に入ると飛鳥を中心に寺院が続々と建立され、朝鮮半島から仏教を中心とした大陸文化が怒濤の如く流入してくるが、新しい大陸文化の波は着実に東国へも波及してきている。
 このような古墳を築造した人々はどのような生活をしていたのであろうか。
 古墳時代になっても、当時の人々が最も生活の基盤としたのは農業であり、古墳時代前期の五領・和泉期の集落も水田に近い沖積低地に営まれている。住居は隅丸方形の竪穴式住居で、住居の中央やや片側寄りに炉が作られている。住居の構造は弥生時代と大差なく、弥生時代後半期に出現した竪穴住居のベッド状遺構や貯蔵穴はこの時期にも作られた。炉もきわめて簡単な作りで、施設らしいものはなく、住居址床面の一部が赤く焼けただけのものがほとんどである。
 古墳時代後期の鬼高期になると、集落は沖積地に限定されず、台地深奥部や山間高地にまで営まれるようになってくる。この時期にも竪穴住居が用いられたが、住居構造に変化が現われる。住居内の貯蔵穴は姿を消し、住居の片側に寄せて壁際につくり付けのカマドが構築される。カマドには時と共に改良が加えられ、焚口部と煙道を備えたものも現われた。住居中央部を炉が占めていた頃と比べると、居住空間が拡大し、煙道を備えることによって屋内に煙が充満する不便さが格段に少なくなったことは当時の人々にとって、大きな改革であったと思われる。
 生産用具としての鉄器も普及した。特に住居址内から出土する鉄製農具の比率は、古墳時代後期以後、急速に増加する。壺、甕、甑、小型丸底土器、小型器台、高坏、杯、坩などが出土し、古墳時代前期土師器編年の標式遺跡ともなっている東松山市五領遺跡では、竪穴住居内から磨り減らされた砥石が多数発見されており、鉄製農工具の刃部仕上げに利用されたものと考えられている。埴輪の中には腰に鉄鎌をさし、肩に鉄鍬を担いだ農民の姿を現わしたものが少なくない。これはあるべき姿を表わしたものではなく、あるがままの姿を写したものであろう。古墳時代後期における集落の丘陵部への進出の背景には、人口の増加とともに鉄製農工具の普及が大きく作用していたのである。
 集落が丘陵地帯へと進出していった原動力の一つに、畑作農耕の発達がある。長野県平出遺跡では陸稲と推定される稲以外に、大麦、粟、ソラマメ、エンドウなどの種子が発見されており、群馬県黒井峯遺跡では、竪穴住居に隣接してウネをもった畑が検出されている。水稲農耕にしばられない多様な農業経営が結果的には可耕地を増やし、生産力の高まりが古墳築造事業を支えるものとなったといえよう。
 鶴ケ島町でも古墳時代になると弥生時代に比べて遺跡数が増加する。現在までのところ、北ケ谷、八幡原、宮田、一天狗、上山田、若宮、台、愛宕、鶴ケ島中学西、地慶、お寺山、松原前、大境、共栄等の遺跡に古墳時代の集落跡があったことが判明している。発掘調査が充分に行なわれているとは言いがたいため、遺構の判明しているものは少ないが、若葉台地区の千代田遺跡では古墳時代中期の竪穴式住居四軒が、山田遺跡では古墳時代初期の五領期の竪穴住居一軒、五領末期から和泉期の竪穴住居二軒、和泉期の竪穴住居七軒、古墳時代後期鬼高期の竪穴住居一軒が発掘によって確認されている。また、鶴ケ丘稲荷神社古墳に近接して五領期の竪穴住居一軒があり、昭和三八年にはこの地区の長竹遺跡でも五領期の竪穴住居一軒が発掘されている。
 発掘調査で確認された集落跡には古墳時代前・中期のものが多いが、分布調査によって古墳時代後期に入るものも四か所以上あり、後期になってからの古墳群形成を考え合わせると、古墳時代後期には相当大規模な集落が営まれていた可能性が高い。

図2-14 鶴ケ島町内遺跡分布図(古墳時代)