第二節 官衙機構の整備

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 我が国が古代国家としての体裁を整えるようになるのは飛鳥時代であり、朝鮮半島三国や隋唐の進んだ国家体制を習って、官衙(かんが)機構の整備が図られた。その終着点が大宝元年(七〇一)に完成された大宝律令(たいほうりつりょう)であり、これを補完したのが養老二年(七一八)に撰定された養老律令(ようろうりつりょう)である。大宝律令によって律令体制が確立されるまでには推古朝以来約一世紀が費され、この間には大化改新、近江令(おうみりょう)、飛鳥浄御原令(あすかきらみがはらりょう)等の撰定や、我国最初の戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)の作成をはじめ、さまざまな冠位制(かんいせい)や朝堂(ちょうどう)の礼式(らいしき)が制定されていった。
 こうした律令制を具体的に現わすために、都城制(とじょうせい)に基づく都が造営され、五畿七道の各国々には国衙(こくが)、郡衙(ぐんが)をはじめとするさまざまな官衙施設が設けられた。
 都城制は東西、南北縦横に碁盤の目のように走る大路(おおじ)、小路(しょうじ)によって区画された京域(きょういき)の中に二官八省の中央官庁と天皇の住む内裏(だいり)からなる宮域(きゅういき)を設けたもので、持続八年(六九四)の藤原(ふじわら)京を初めとして、平城(へいじょう)京、難波(なにわ)京、恭仁(くに)京、長岡(ながおか)京、平安(へいあん)京が作られた。宮域内には内裏、朝堂院、大極(だいごく)殿、豊楽(ぶがく)院の他、二官八省の官衙群が建ち並んでいた。京域は中央を南北に走る朱雀(すざく)大路によって左京と右京に分けられる。左右京内には官設の東西二つの市が最初から設定され、大小の官寺や氏寺が甍を競っていた。しかし、宮に付属して京域が設定された最大の目的は、二官八省に務める官人に宅地を班給(はんきゅう)することにあり、飛鳥時代には各自の邸宅(本貫)から宮に出仕していた方式を改め、京内に班給した宅地から出仕させることに本来の目的があった。後の戦国時代に家臣団が強制的に城下町に集住させられた状況に近く、豪族を本貫地から切り離して律令官人化させるためにも京内への集住が求められた。宮内の建物には掘立柱建物が多用されたが、朝堂院や大極殿など主要な建物には礎石建て基壇建物が用いられた。内裏の一画を除いて建物には全て屋根瓦が葺かれ、一段と威儀を正したものとなった。
 宮内には遊宴の場としての園池(えんち)も作られていた。園池を築くことは唐の都大明宮や新羅王城にも見られ、飛鳥時代にも勾池などが作られて賞揚されたことが万葉歌にも残されている。平城宮内の園池には八角形の亭や橋が配され、鸚鵡(おうむ)その他の禽獣(きんじゅう)が飼われていた。奈良時代には作庭技術が高度に発達し、平安時代の離宮や貴族の邸宅の象徴とも言える寝殿造りに受け継がれていった。

図2-18 平城宮と平城京

 一方、地方行政機構の面では五畿七道制に伴って主要道には三〇里毎に駅や水駅が設けられた。七道中最も整備されたのは外国からの使臣が往来する山陽道で、ここの駅屋のみは瓦葺にされている。外国からの使臣のために大宰府には鴻臚館(こうろかん)、摂津には難波客館(きゃくかん)を設けて便に供していた。後には航海中の漂着に備えて能登にも客館が作られている。こうした平時とは別に、大陸からの侵攻に備えて対馬、大宰府、瀬戸内を通って都に急を告げるための烽(のろし)や対戦時の拠点となる山城(やまじろ)が各地に築かれている。西日本を中心とする対外関係の一大拠点が大宰府であり、蝦夷に対する東の拠点として設けられたのが多賀城である。
 各国々に置かれた国府には、都城の京域に相当する国府域と宮域にあたる国衙域が設けられ、国衙域には中枢部である政庁と実務をとる官衙、正倉が置かれた。国府域は官人や市人など一般民衆の居住域で、市が設けられ、手工業生産なども行なわれた。国府域の広さは国によって差はあるが、方八町と呼ばれるように八町四方を占めるものが多い。国衙には政庁や正倉の他にも、仏経、度縁、戒牒、田図、戸籍を収める国庫や兵庫、孔子廟、講堂、竃屋、学生屋からなる学校、国司の居館である国司館などの施設があり、国の学校は国学と呼ばれて中央の大学と区別されていた。

図2-19 周防国府

 埼玉県の属する武蔵国の国衙は東京都府中市にある。武蔵国総社大国魂(おおくにたま)神社一帯が比定地で、東京都教育委員会や府中市教育委員会によって発掘調査が行なわれている。竪穴住居址とともに多数の掘立柱建物群が発見されており、官衙域や政庁域の一部が検出されているものの、全貌はなお明確でない。関東地方で国衙政庁の構造が最も良くわかっているのは下野国府で、築地で囲まれた正方形区画内に正殿、前殿、東西脇殿が整然とコの字型に配置されている。典型的な政庁の建物配置で、築地には東西南北四ヶ所に門がとりつけられている。

図2-20 下野国庁

 国衙の支配下にあって郡の役所となるのが郡衙である。文献上に詳しい記録を欠く国衙と異なり、平安時代の長元三年(一〇三〇)に書かれた上野国交替実録帳(こうずけのくにこうたいじつろくちょう)には上野国内一四郡に置かれた郡衙の施設に関する克明な記録がある。これによると、郡衙には正倉、郡庁、館、厨家があり、正倉は七棟から二六棟で一郡の郡倉を形成している。国衙の政庁にあたる郡庁は、庁屋、向屋、副屋の三棟を中心に公文屋、宿屋、納屋、厨、厩などで構成される。館には一館から四館まであり、一つの館は宿屋、向屋、副屋の三棟と厨家または厩の四棟で構成されていた。
 郡衙の施設のうち最も多数を占め、重要な役割を果たしていたのが正倉であることは、奈良時代の天平年間に書かれた正倉院文書中にも示されており、また、郡倉が東、西、南、北など、数群に分かれていたことが交替実録帳からも窮うことができる。
 現在までに発掘調査が行なわれ、郡衙の跡とされる遺跡は全国で四〇ヶ所以上に及び、関東地方でも東京都御殿前(ごてんまえ)遺跡(武蔵国豊嶋郡衙)、神奈川県長者原(ちょうじゃはら)遺跡(武蔵国都筑郡衙)、同御成小学校(おなりしょうがっこう)遺跡(相模国鎌倉郡衙)、千葉県日秀西(ひびりにし)遺跡(下総国相馬郡衙)、茨城県古郡(ふるごおり)遺跡(常陸国新治郡衙)、同平沢(ひらさわ)遺跡(常陸国筑波郡衙)、同神野向(かのむかい)遺跡(常陸国鹿島郡衙)、同西坪(にしつぼ)遺跡(常陸国河内郡衙)、群馬県十三宝塚遺跡(上野国佐位郡衙)、栃木県塔法田(とうほうだ)遺跡(下野国芳賀郡衙)、同梅曾(うめそ)遺跡(下野国那須郡衙)、同中村(なかむら)遺跡(下野国芳賀郡衙)があげられる。これらの郡衙遺跡では、規模の大きい建物群からなる郡庁域や総柱建物による倉庫群や郡関係の墨書土器、硯、官人の象徴である帯金具が検出されている。

図2-21 都筑郡衛

 しかし、ここにあげた以外にも郡衙的様相を呈する遺跡が少なくない。鶴ケ島町の若葉台遺跡も郡衙的要素をもつ遺跡の一つである。
 若葉台遺跡は鶴ケ島町と坂戸市にまたがる奈良時代から平安時代までの大遺跡で、遺跡の範囲は一〇万平方メートルに及ぶと推測されている。鶴ケ島町では昭和五二年以来の発掘調査によって、竪穴住居四三軒、掘立柱建物四二棟、井戸二八基、坂戸市内では昭和五四~同五七年までの調査で竪穴住居七四軒、掘立柱建物二一棟、井戸四基が検出されている。合計すると竪穴住居一一七軒、掘立柱建物六三棟、井戸三三基となる。しかも遺跡全体が調査されているわけではなく、ここにあげた数字は今後大幅に増加することが予想される。
 遺物には須恵器約一、五〇〇点、土師器約一三〇点、木器六二点、鉄器五五点、円面硯一七点、奈良三彩三点、帯金具二点、銅鈴一点、銅線、墨、炭化米がある。土器の中には墨書土器二〇点、朱書土器一二点が含まれ、木器のうち皿には「王」の焼印がある。また、須恵器の年代から、この遺跡が八世紀第2四半期に始まり、八世紀後半を最盛期として一〇世紀初頭に廃絶することが明らかにされている。
 関東地方の平均的な集落跡に比べると掘立柱建物が異常に多く、建物個々の規模も大きい。特に鶴ケ島町内B区で検出された掘立柱建物群は、廂を有する五間×六間の主屋を中心に四棟の建物が方位を同じくして整然と配置されている。遺物の点でも、一般集落から出土することの少ない奈良三彩や銅製品が含まれていること、墨書、朱書土器のみならず硯や墨のあることが注目される。
 若葉台遺跡に関しては入間郡衙説、豪族居宅説、荘庁説の三説が出されている。しかし、三説とも決定的な説となりえていないのが現状であり、今後の調査の進展と類例の出現が期待されるところである。

図2-22 若葉台遺跡実測図


図2-23 若葉台遺跡遺物実測図