若葉台遺跡の所でもふれたように、奈良時代から平安時代にかけても住居の基本は竪穴住居であり、これに若干の掘立柱建物(倉庫)を伴うのが普通である。竪穴住居の構造も古墳時代の後期の形式を踏襲し、壁面にカマドが作られている。ただ、住居床面に四本の主柱穴をもつ形式に加えて、柱穴を全く持たない無柱穴住居が奈良時代に出現する。
集落にはわずか数軒の竪穴住居で構成される小規模なものから数一〇軒以上の竪穴住居が集合した大集落までさまざまである。これらの集落の中には家族を単位とすると見られる竪穴住居群があり、竪穴住居数軒と一間×一間あるいは二間×三間程度の掘立柱倉庫一~二棟が単位となる場合が多い。また、集落の中には古墳時代から継続して営まれているものと、奈良時代になって突然出現するものとが見られ、ごく自然的なあり方を示す前者に対して、後者は計画村落と呼んで区別されている。ただし、これが直ちに政治的な村の移動かどうかは速断できない。
奈良時代の農業経営に深く係わるものに条里制地割がある。条里制地割は全国的に分布し、埼玉県内にも一〇ヶ所近く遺存している。坂戸市内にも小規模な条里制地割が残っているが鶴ケ島町には見られない。
集落の中には農業の他に手工業をも行っているものがある。埼玉県加須市水深(みずふか)遺跡では、奈良時代から平安時代に至る集落の中で土師器(はじき)を作り、これを焼いた土器焼成壙が六四基も発見されている。専門工人集団によって土師器が作られていたことを示す好例である。茨城県鹿ノ子(かのこ)C遺跡では鉄鍛冶と漆工芸を行っている。鍛冶遺構は隅丸方形、隅丸長方形あるいは円形の竪穴状を呈し、内に二~四ヶ所の炉跡が作られている。ふいご羽口、鉄滓、砥石、礫とともに、鉄製の刀子、鏃、〓、釘、鎌が出土している。漆工芸の存在を裏付けるのは二八九点も大量に発見された漆紙文書である。漆紙文書は文書として使用した後の反古紙を漆の貯蔵器の蓋として再利用したため、紙に漆がついて腐朽することなく遺存したもので、木の板に文字を書いた木簡とともに貴重な文字資料となっている。鹿ノ子C遺跡出土漆紙文書には田籍(でんせき)関係文書、計帳(けいちょう)関係文書、具注暦(ぐちゅうれき)、習書が含まれている。習書は別として他は全て国府と関係の深い文書である。常陸国府から払い下げられた紙とすれば、単なる一般的な集落と異なり、国府に専属する工房の可能性が高い。
木簡と漆紙文書
こうした専業の手工業集落とは別に、集落の片隅で小規模に鍛冶を行っていた所も少なくない。鶴ケ島町羽折で昭和三六年に発掘された竪穴状遺構も小鍛冶遺構と考えられるもので、焼土、礫群、炭、鉄滓、鉄片、〓、須恵器が発見されている。集落内にあって農工具などの製作、修理を行っていたものであろう。関東地方の農耕集落の中には、集落内に小規模な小鍛冶遺構をもつものが少なくない。しかし、そこで行なわれたのはあくまでも小鍛冶であり、製鉄を行なう大鍛冶遺構は発見されていない。
図2-24 羽折遺跡・鍛冶遺構
集落内での副業的手工業として重要なのは紡織である。古墳時代までと異なり、奈良時代以後の竪穴住居址では石製や鉄製の紡錘車を出す例が急増する。鉄製鋏を伴うこともあり、自家用消費だけでなく、調布を織ることが盛んに行なわれたことであろう。
土師器と並んで重要な日常雑器であった須恵器(すえき)の生産も奈良時代に入ると盛んに行なわれた。埼玉県内では七世紀中頃から後半にかけて東松山市舞台窯や、寄居町三ケ山(みかやま)窯跡で小規模な生産が行なわれていたが、七世紀末から八世紀にかけて寄居町末野(すえの)窯跡群、入間市東金子(ひがしかねこ)窯跡群、東松山市・嵐山町・鳩山町にまたがる南比企(みなみひき)窯跡群で生産が開始され、一大窯業地帯を形成している。これらの窯跡では坏、皿、椀、高坏などの什器や壺、甕類の生産は勿論、円面硯、風字硯などの硯や瓦塔も作られている。しかし、とりわけこれらの窯跡群で注目されるのは、須恵器だけでなく、須恵器と瓦を同一の窯で焼成する瓦陶兼業形態をとるものの多いことである。瓦陶兼業がとりわけ盛んになるのは武蔵国分寺造営開始期である。
瓦塔
武蔵国分寺は東京都国分寺市にあり、昭和三一年以来継続的な発掘調査が行なわれている。東西八町、南北五町の全国一を誇る広大な寺域の中に四町四方の僧寺と一・五町四方の尼寺を併設している。僧寺は中門、金堂、講堂、東僧房、西僧房、塔を国分寺式に配置し、尼寺では金堂、講堂、尼房が南北一直線に配されている。
武蔵国分寺から出土する瓦には文字瓦(もじがわら)がきわめて多い。瓦への文字の入れ方には、ヘラで文字を書き込むもの、印で刻印するもの、瓦製作に用いる叩き板に文字を刻みつけるもの、瓦製作に用いる模骨(もこつ)に文字を刻みつけるものの四種がある。記載内容には個人名、郷名、郡名の三種があり、いずれも武蔵国分寺造営に際して瓦を寄進した主体者を表わしている。一方、旧武蔵国内の須恵器窯からも同様の文字瓦が出土している。須恵器窯の位置していた郡や郷名の名称と窯跡出土文字瓦の名称が一致すれば問題はない。しかし実際には同じ一つの窯で複数の郡名、郷名をもつ文字瓦が焼かれていたり、同じ郡名、郷名の文字瓦が郡境を超えた遠隔地の二ヶ所以上の窯で発見される場合が少なくない。これはある一つの郡や郷が複数の産地へ発注したり、一つの産地が複数の郡や郷から受注した結果であり、発注者と受注者との間に多様な動きのあったことを反映したものと考えられる。
さて、文字瓦にあらわれる郡名には、豊嶋郡、足立郡、荏原郡、埼玉郡、入間郡、高麗郡、比企郡、横見郡、大里郡、男衾郡、幡羅郡、榛沢郡、児玉郡、賀美郡、那賀郡、秩父郡、多麻郡、橘樹郡、都筑郡、久良郡があり、新座郡を除く、武蔵二一郡中の二〇郡があげられる。郷名では、荒墓郷、白方郷、広岡郷、湯島郷、日頭郷(以上豊嶋郡)、蒲田郷、木田郷、大井郷(以上荏原郡)、大田郷、草原郷(以上埼玉郡)、入間郡の大家郷、男衾郡の留多郷、大山郷、幡羅郡の那珂郷、児玉郡の大井郷、那珂郡の那珂郷、水俣郷、多麻郡の川口郷、石津郷、小野郷、橘樹郡の県守郷、高田郷、都筑郡の立野郷、針〓郷、久良郡の諸岡郷など、二五郷に及んでいる。文字通り国内をあげての国分寺造営の姿が彷彿されるが、このことは逆に、国分寺の造営が国司の監督の下に行なわれたにしても、実際には郡司層がかなり活躍したことを示している。
天平一三年(七四一)に国分寺造営の詔が出されて以後も、国分寺の造営は一向に渉らなかったらしく、六年後の天平一九年には全国の国司に対して向う三年以内に造り終るように督促する詔が出されている。この時、郡司のうち有能な者を造営に専念させること、もし三年以内に完成すれば子々孫々絶えることなく郡領に任ずることを約束している。郡司はもともと地方豪族の世襲職であったものを大宝令によって世襲制を廃止し、能力制とされていた。現任郡司層にとってこれを世襲できることは大変な魅力であり、全力を傾けて国分寺造営に取り組んだことは推察に難くない。武蔵国分寺出土郡名瓦、郷名瓦がきわめて広範囲の郡と郷に及んだ原動力がここにあり、個人名の中には現任郡司層に対して巻き返しを図る前任郡司層がいたかもしれない。
若葉台遺跡でも出土している奈良三彩は中国の唐三彩の影響を受けて我が国で作られた焼き物で、釉薬の一原料として鉛を使うため、鉛釉陶器とも呼ばれる。釉薬の製法は正倉院文書中の「造仏所作物帳」に詳しく、白石と鉛丹とでベースを作った後、赤土や緑青を混ぜて褐色釉や緑色釉としている。これに地色の白色を加えたものが三彩、緑と白の二色を使ったものを二彩、三色のうちの一色だけを用いたものを単彩と呼んでいる。釉薬の製法を記した造仏所は造寺司に付属する官営工房で、土師器や須恵器と違って、奈良三彩は官営工房で独占的に生産された貴重品であった。
奈良三彩の生産はほぼ奈良時代で打ち切られ、平安時代になると緑釉陶器の生産に切り変えられていく。これは中国陶磁の中でも越州窯を中心に作られた青磁の色と形を写したためである。平安時代には緑釉陶器とは別に灰釉陶器の生産が始まる。灰釉陶器も中国製青磁をモデルにし、愛知県猿投(さなげ)窯で盛んに生産された。猿投窯では緑釉陶器も作っており、猿投窯で作られた緑釉陶器や灰釉陶器は関東地方へも搬入され、貴重品として扱われている。
図2-25 武蔵国分寺の伽藍