抑々(そもそも)、権現丸の由来を悉(ことごと)く尋ぬれば、応神天皇の御時より、俄(にわ)かに海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥(はる)かに沖を見ておれば、唐船急ぎ八の帆を上げて、大磯の方へ棹(さお)をとり、走り寄るよと見るうちに、程なく汀(なぎさ)につき、浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも、翁(おきな)一人立ち出でて、櫓(やぐら)に登り声をあげ、汝等(なんじら)それにてよく聞けよ、われらは日本の者にあらず、諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪慳(じやけん)な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依(きえ)する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁昌と守るべし。あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上がらせ給う。御代よりも権現様を載せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいうなれよ。ソウリヤ、ヤン、ヤイヤン。(高麗興丸ほか『高麗神社と高麗郷』 昭和六年 所収)
この歌は、大磯町で七月一八日に行われる夏祭りの「祝い歌」である。古くから伝わり、今日もなお歌いつづけられている。高麗神社の鳥居前でも「高麗大明神を伏し拝み……」の歌があって、歌い終ると祭典が始まる。
この海上に突如として出現した翁は、高句麗から渡来した高麗若光である。伝承によると、大化の頃、高麗若光は高句麗(こうくり)滅亡後、安住の地を求めて黄海に船出し、対馬あたりから黒潮にのって東行し、遠州灘から伊豆半島を迂回して、相模湾にはいり、当時、入江になっていた大磯に錨(いかり)をおろしたという。そして、唐(もろこし)ケ原に上陸して、居(きょ)を化粧坂(けはいざか)にかまえ、花水川(はなみずがわ)の下流地域を開拓したのであった。
図3-1 大磯高麗を中心とする高麗人の足跡
荒竹清光「関東地方における高麗人・新羅人の足跡」を原図とし作図
この伝承や歌そのものを史実とすることは無理であろうが、しかし、無視することもできない。今も大磯には高麗山にうっそうと樹木が生い繁り、その南面の山麗には高来(たかく)神社、高麗神社、権現さんなどの名でよばれている由緒ある神社があり、宮寺として鶏足山雲上院高麗寺が現存する。もっとも、高麗神社は明治三〇年に社号を高来(たかく)神社と改称し、祭神も変更しているが、本殿正面には高麗神社の懸額が、厳然と残っている。あたかも祭神変更の歴史を語るようである。
彼らは相模川を渡って、広大な相模野を開拓したので、その郡名も高倉郡と称するようになった。高倉は高句麗がなまって「コクリ」となり、そのコクリを高倉(こくら)と書くようになったのである。現在は高座(こうざ)郡となっているが、その高座も初めの頃は高座(たかくら)と読んだのが、音読して「コウザ」となったというのが通説である。
大磯に上陸した高句麗からの渡来人は、その一部は花水川を遡上(そじょう)して、相模大山の東麓、日向(ひなた)薬師で名高い日向山でも足跡を残している。『伊勢原町勢誌』によると、「若光を中心とする帰化人の一団が、大磯の唐(もろこし)ケ原(花水川の河口)に上陸し、相模・武蔵の各地に大陸文化を普及したのであるが、日向山下に白鬚(しらひげ)神社があり、若光は長い白鬚を生やしていたので白ひげ様と称し、御神体も白いひげを長く垂らした木像を安置する。また、「日向薬師縁起」にも、日向山霊山寺(ひなたさんれいせんじ)(※)は、神仙の霊窟(れいくつ)、異人の幽棲(ゆうせい)なるが故に寺号となすとあり、相模国内の中央山間部は文化の高い高句麗人たちによって開発が進み、王朝時代には相模国の中心となっていたのであるという。
※ 現在は宝城坊となっている。
大磯の高麗地域が、高句麗渡来人の移住拡大の根拠地であり、その後、北方に移動発展したことについては、荒竹清光氏は「関東地方における高麗人・新羅人の足跡」で次のように述べている。
高句麗渡来者たちは、高句麗ゾーンともいうべき分布を、箱根・丹沢・秩父山地の山麓線に沿って形成し、一方、新羅(しらぎ)人たちは、荒川や利根川に沿って、新羅フローア(建物の床)ともいうべき広がりをもつようになったと考えられる。
騎馬民族であり、勇壮で騎射にたけ、狩猟を得意とする高句麗人は、移動式焼畑耕作を背景に、山地民族的特質を発揮しつつ、拡大移住していったであろうし、一方、新羅人は、稲作や養蚕を中心として、集団結合的に、沖積平野に根拠地をもつに至ったものと考えるからである。(中略)
関東地方に渡来した人々が、それぞれの母国の姿をこのように投影しないわけはないのである。
図3-2 高麗居住地(丘陵地)と新羅人居住地(低地)
荒竹清光「関東地方における高麗「人・新羅人の足跡」を参考とし作図
高句麗人の渡来したと伝える秩父山麓地方は、八王子・青梅・飯能・越生・小川・寄居のいわゆる「武蔵根(ね)」と呼ばれる地方であり、そこに谷口(たにぐち)集落を営んだのであるが、その中心地が高麗郡である。