第二節 高麗郡の設置

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 和銅三年(七一〇)に都が奈良へ移ってから六年たった霊亀(れいき)二年(七一六)五月に、武蔵国に高麗郡が新設された。『続日本紀』同年五月の条に次のように記している。
駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸(ひたち)・下野の七ケ国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷(うつ)し、始めて高麗郡を置く。

 この記事によって、関東地方にはこれより以前に、静岡県(駿河)を含めて、神奈川(相模)・千葉(上総・下総)・茨城(上総・下総・常陸)・栃木(下野)の関東各県にも、高麗人が来住していたことが知られるわけである。各地に分住していた高麗人を集めて新たに建てられた高麗郡は、これより五年前に設置された上野国(群馬県)多胡(たご)郡の場合と同様に、渡来人のためにわざわざ設けられた一郡である。もっとも、多胡郡の場合は新羅人のためだといわれている。
 群馬県多野(たの)郡吉井町に残る、日本三古碑の一つである多胡碑によると、和銅四年(七一一)三月九日の日付で次のようになっている。
弁官ノ符(ベンカンノフ)ニ、上野ノ国片岡ノ郡、緑野(ミドノ)ノ郡、甘良(カラ)ノ郡、并(ナラ)ビニ三郡ノ内三百戸ヲ郡ト成シ、羊ニ給イテ、多胡ノ郡ト成ストアリ(尾崎喜左雄『上野三碑の研究』)

 それでは、新置の高麗郡はどこまでをその範囲としたのであろうか。『新編武蔵風土記稿』は
初メ高麗人ノ遷(ウツ)サレタ者、今ノ高麗本郷、或ハ、新堀村・青木村ノアタリニ住ミテ、ソレヨリ漸々(ゼンゼン)(しだいに)草創セシコトト見ユ。

 と、非常に範囲を狭く解釈しているが、今井啓一氏はやや拡大して考えている。
和名抄によると、武蔵国高麗郡には、高麗・上総(カムツフサ)の二郷(ごう)を載せている。うち高麗郷は旧高麗村・高麗川村・高萩村の辺とすべく、上総郷は和名抄にも見えるように、もと上総国に分住していた高麗人が、ここに移住したからの称とすべく、それは今の飯能市のうちと思われる。(『帰化人と東国』)

 また、土地の伝承としては、日高町高萩字駒形にある駒形神社は、次のような由来を伝えている。
「若光は、土地を開拓するに先だちて、神祇を崇敬し、猿田彦命・武内宿禰(すくね)を祭り、また東方に釘貫(くぎぬき)門を設け、その近傍を卜(ぼく)して保食(うけもち)命・天石戸別(あめのいわとわけ)命・日本武尊を祭る。駒形神社これなり。神社の南方に、高麗人の井と称するものが今なお数箇所残っている。また神社の東方に釘貫と称する字(あざ)があり、往古の釘貫門の跡なりと言い伝えられている」(『入間神社誌』)。

 この釘貫と称する地名は武蔵高萩駅の南方にある。この伝承は高麗郷の東限にあたる釘貫に門を設けて出入を厳重にし、守護神として駒形神社を創建したというのである。
 また、吉田東伍の『大日本地名辞書』には、「高麗郷は、上総郷の北、麻羽郷の南、西は吾那保(あがなほ)に至り、東は安刀(あと)郷(入間川西岸の諸村)とす」とあり、明治二九年現在の広大な高麗郡とは比較にならぬ小郡であったのである。
 『飯能郷土史』・『高麗郷土史』には、いずれも、高麗郡には高麗本郷と上総郷の二郷があり、そのうちの高麗本郷は一四か村からなるとして、勝楽寺に残る文応二年(一二六一)の銅鐘の銘に刻まれた村名を挙げている。高麗本郷・瓦(ママ)・新堀・楡木(にれぎ)・高岡・梅原・野々宮・猿田・平沢・町谷(屋)(まちや)・高倉・鹿山・女影・新田(ママ)。
 しかし現存する文応の銅鐘には「武州高麗勝楽寺奉鋳鐘長二尺七寸諸行無常是正滅法生滅々己寂滅為楽文応二年(歳次辛酉)三月日大檀那比丘尼信阿弥陀仏平定澄朝臣大工物部季重」とあるのみである。
 次に、移住した人数から地域の広さを考えてみたい。高麗郡に遷された人数は一七九九人であるから、一応、一八〇〇人と概算する。高麗郡は高麗郷と上総郷の二郷で構成されているので、平均すると一郷には九〇〇人いることになる。しかし、一郷の戸数は五〇戸と律令制で規定されている。すると、一戸の構成員は一八人である。ここに「戸」というのは、郷を構成する戸であるから「郷戸」と呼ばれる。郷戸の下には、下部組織として、「房戸」が存在する。これが、実際の生活単位としての家族である。郷戸に属する房戸の数は限定されていない。
郷―郷戸―房戸

の順である。
 郷戸の人口が一八人という数は、奈良朝の戸籍と較べると、どうなるであろうか。元正天皇の頃、養老五年(七二一)の大島郷(東京都葛飾(かつしか)区柴又付近)の戸籍によると、郷戸の人数は四人から四二人以下、平均二三・八人であり、房戸は二人から一八人、平均九・一人である。高麗郡の郷戸成員が平均一八人というのは、大島郷の二三・八人に較べると、やや少数であるが、十分に郷を成立させる人数である。
 実際に、奈良時代の住居址を発掘調査すると、古代の郷戸は単独家屋で発掘されることなく、必ず、その周囲に房戸をめぐらせているのがよくわかる。