この国は、〓貊(かいはく)族といわれる人々で構成されていた。ツングース族の系統であり、蒙古の種族も加わっていたとみなされている。彼らの居住の中心は鴨緑江の中流であった。この地方は、一年を通じて夏以外の多くの期間、寒冷におそわれ、山地は険(けわ)しく、肥土も少なく、天候の変化も激しいところであった。高句麗の歴史も、人々の思想も文化も、この風土を考えなければ理解できない。
『三国史』の引く「魏書東夷伝高句麗条」いわゆる『魏志』高句麗伝のなかに、
大山深谷多し。原沢(低地と沢)無し。山谷に随って以て居を為す。澗水(かんすい)(谷間の水)を食し、良田無し。佃作(でんさく)(田畑の耕作)に力(つと)むと雖(いえど)も、以て口腹を実(みた)らすに足らず。
と記してあるのは、この風土の実状を伝えるものであろう。高句麗人はこのような環境に育って、「其の人潔清(いさぎよい)」とか、「気力あり、戦闘を習う」とか、「其の人凶急(わるく気早い)にして寇鈔(他国に攻めこんで略取する)」というような民族性がつくられた。文化方面でもまた独自な性格をもった文化を創造していた。
紀元一世紀頃から遼東方面に進出して、三世紀初めには都を丸都(輯安(しゅうあん))に移し、三世紀中頃(二四四―五年)には、中国の魏の攻撃を受けて大きな損害を与えられながらも、更に南方に進出して、楽浪(らくろう)郡(※)を滅亡させた。
※ 楽浪郡は、紀元前一〇八年に漢の武帝が衛氏の朝鮮を滅ぼして、朝鮮半島に設置した郡である。現在の平安・黄海道方面にあたる。
しかし、中国に対する進出は前燕のために妨げられたので、主力を朝鮮半島の南下に注ぐことになった。
こうして、四世紀の後半には高句麗・百済(くだら)・新羅(しらぎ)と日本の勢力がたがいに抗争することになった。そのうち、百済と新羅は日本に服属し、四世紀末には南下する高句麗の軍と、日本軍とが数度にわたって衝突することになった。好開土王の時代に最盛期を迎え、日本と結ぶ百済を討ち、新羅を救けた。
五世紀になると、高句麗の南下は更に促進され、四二七年には、都を丸都(輯安)から、かつての楽浪郡のおかれていた平壌に移し、その領域は遼河以東と、慶尚道・全羅道・忠清南道を除く朝鮮半島の大半を占める大国となり、百済・新羅および日本の勢力は圧迫される形勢になった。
四七五年には、百済の都の漢城(広州)が高句麗の攻撃を受けて陥落し、百済王も捕虜となって斬殺された。その結果、百済は都を南方の熊津(公州)に後退させ、日本軍の援助によって再建を計らざるをえない運命になったのである。
六世紀中葉から七世期後半になると、新羅が急成長して、百済との間に対立抗争することになったが、その抗争の間に、半島南部の加羅(から)諸国(任那(みまな))は両国に吸収合併されて三国時代になり、この三国がおたがいに対立抗争することになった。
六世紀末になると、中国で隋(ずい)が天下を統一し、その勢いに乗じて高句麗に軍を進めた。しかし、高句麗は屈せず、四度にわたる攻撃を退けたが、その間に隋は滅亡した。
ところが、隋のあとを継いだ唐は、六四四年に高句麗討伐軍を派遣し、八度にも及んで侵入を試みた。この間に、新羅は唐と連絡を保ち、六六〇年には百済を倒し、六六八年には、高句麗内部の紛争が禍(わざわい)となって、ついに高句麗は、唐・新羅の連合軍に滅ぼされてしまった。これは、日本では天智天皇七年のことである。
ちなみに、同じく「高麗」と書いて、「こうらい」という国が、平安初期(九一八)に朝鮮半島に起り、新羅を滅ぼして半島を統一した。この国は元(げん)の属国となり、文永・弘安の役(一二七四・八二)の際には、元に強いられてわが国に進攻した。高句麗の日本名「高麗(こま)」とは別の国である。
図3-3 南北朝時代の朝鮮半島(AD439-581)