第四節 渡来人の安置と優遇

152 ~ 154
 大陸の半島から渡来した人々が、最初移住したのは京都に近い畿内(山城・大和・河内・和泉(いずみ)・摂津の五か国)地方であったが、時代がたつに従って変ってきた。
(1)最も古く、四世紀末・五世紀初頭に渡来した人々。
(2)大化改新(六四六)ごろまでに渡来した人々。これは新漢人(いまきのあやびと)などといわれ今来または新などを冠す。

 この(1)(2)の渡来人は畿内や近江に集住し、日本古代国家の形成に大きな役割を果した。当時、天皇家や有力な氏族の多くは、渡来人たちをその配下として、彼らの高度な知識や技能、あるいは労働力を活用して、自己勢力の拡大に努めた。
(3)朝鮮半島の百済(くだら)(六六五)や、高句麗(六六八)が滅亡する前後に渡来した、主としてそれらの亡命遺民たち。

(4)奈良朝以降(七一〇―)になって渡米した少数の人々。

 (3)(4)の渡来人については、政府の配置方針が変ってくる。七世紀中頃になると、百済、次いで高句麗が滅亡したので、その亡命遺族が大挙して、日本へ渡来・寄住した。その頃、大化改新や律令(りつりょう)制度などによって、律令国家の体制は一応整備され、畿内およびその周辺は高度な文化をもつようになったので、政府は従来の渡来人対策の変更をよぎなくされた。そして、遠く畿内から離れた東山道や東海道の未開・後進の閑地に移住させ、彼らを有力な労働源とすることによって、東国開拓に従事させることにしたのであった。閑地とは、土地広く、人口が少い場所のことで、東国にはそうした土地が多かったのである。淳仁天皇天平宝字二年(七五八)八月に新羅郡を設置した場合には、新羅人を「武蔵国の閑地に移す」(『続日本紀』)と記述してあるが、元正天皇霊亀二年(七一六)に高麗郡を設置したときには、高麗人を「武蔵国に遷す」とあり、閑地の記入はない。しかし、同じ武蔵国の辺地であり、同様の事情にあって、高麗郡の土地開拓に従事させたのであろう。彼らはこうした未開拓の地におかれ、営々として開発に努力したのである。そのさい彼らは、本国の進んだ農業技術を発揮し、それがまた、わが国の原始的農業に影響を与え、農業発展に大きく寄与したのであろう。
 渡来人に対する政府の処遇については、『日本書紀』の次の記事によっても、うかがい知れる。持統天皇元年(六八七)三月・四月の条に、(三月)「投化(まいおもむ)ける高麗人(こまびと)五六人を以て、常陸国に居(はべ)らしめ、田を賦(たま)い禀(かて)を授(たま)いて、生業(なりわい)に安(やすら)かならしむ。」「投化ける新羅人十四人を以て、下毛野(しもつけぬ)国に居らしめ、田を賦い、禀を授いて、生業に安からしむ。」
(四月)「筑紫太宰(太宰(だざい)府長官)より、投化(まいおもむ)ける新羅の法師・尼、及び百姓(おおみたから)の男女二二人を献(たてまつ)る。武蔵国に居らしめ、田を賦い、禀を授いて、生業に安からしむ。」とある。
 すなわち、この年、常陸に高麗人を、下野と武蔵に新羅人を、それぞれ移住させ、田地と食糧を給与して、安心して農作業を励むように配慮したということである。また、戸令には次のような規定がある。「化外の人は、寛国において、貫に付して安置せよ。」これは、外国(化外)の人は、寛国すなわち、畿内から遠く離れた未開・後進の土地で、公民として戸籍に入れて(貫に付す)安置せよということである。
 それだけではない。養老元年(七一七)一一月朔日の条には、「高麗・百済の士卒、本国の乱に遭いて、聖化に投ず。朝廷その絶域を憐みて、復を給いて、身を終えしむ」(『続日本紀』巻七)。この文中、「聖化に投ず」とは、わが国の天皇の教化を受けるようになったという意味で、「絶域」とは、遠く都から隔たった土地のことである。「復を給いて身を終えしむ」というのは、終身、課役を免ずるということである。課役とは、調と役(やく)(庸(よう))をさしている。当時、農民の負担は、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)・雑徭(ぞうよう)等を中心としていたが、租は免除になっていないが、低率の稲を納めるだけであるから、大した負担ではなかった。調は絹や〓(あしぎぬ)(粗悪な絹)・糸(生糸)・綿(まわた)など、郷土の物産を納めるだけであり、庸は一〇日間京に上って労役(ろうえき)に服する義務を負うことであったが、実際には布帛を代納したから、労役に服する必要はほとんどなかった。調も庸も農間期の婦女の仕事で義務を果せた。当時の農民が最も苦しんだのは、居住する国で、年六〇日間、無賃で国司の雑用に駆使されることであった。これを雑徭(ぞうよう)という。年六〇日という期間は、原則として農閑期が選ばれるべきであり、また、六〇日は最大限であって、必ずしも満たされるべき性質のものではないが、国司の利益の前には、この原則も無視されがちであった。これは国司にとって当然の権利であるかのように、公私を混同して限度一杯に使役(しえき)するのが常態であった。
 このような調と役とが免除されるのは、普通は「復」三年とか一〇年とか、期間を限定されたのであったが、辺境に遷された渡来人には、特に終身という優遇策が講じられたのであった。