冬十月二十六日、高麗より、臣・乙相(いつしよう)の庵〓(あんすう)等を遣わして、調(みつぎ)を進(たてまつ)る。大使は臣・乙相の奄〓、副使は達相(たつしよう)の遁(とん)、二位は玄武・若光等なり(『日本書紀』巻二七)
(〓は鄒に同じ。二位は大使の副使の意)
これは、若光の名のわが国の記録の上での初見であるといわれる。次にその名が出るのは、文武天皇大宝三年(七〇三)である。
乙未(四月)従五位下、高麗の若光に王(こきし)の姓(かばね)を賜う(『続日本記』巻三)
この年は、若光が副使として来朝してから三七年もたっている。母国高句麗は、若光が使節として出国した同じ年に内乱が起り、二年後の天智天皇(六六八)には、ついに滅亡している。故国が滅亡して帰国の機会を失った若光は、そのまま滞在して日本へ帰化したのであろうか。この年すでに従五位下という位階を賜わっている。「王」はコニキシ或はコキシと読むのだが、高句麗王のことではない。「コキシ」という日本の姓(かばね)である。姓とは、各氏(うじ)の尊卑をあらわすために、朝廷より賜わった称号であって、臣(おみ)・連(むらじ)が最高の姓である。コキシの姓を賜わったのは、百済王敬福とか、背奈(せな)王福信とか、韓国王の子孫と称した人々であるが、極めて少数である。若光も高句麗の王族であったのであろう。
霊亀二年(七一六)高麗郡が設置されたときには、若光はおそらく七〇才位になっていたのであろう。天智天皇五年(六六六)に、青年外交官としてはじめて来日したときの年令が二〇才以下とは考えられないが、それからすでに五〇年を経過しているのである。長途はるばるこの辺境武蔵国へ老躯を挺したのであろうか。正史の上では、賜姓以後の若光の消息については何も伝えてはいない。高麗郡設置の記事にも若光の名はどこにも見えない。単に「七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」と記してあるだけである。これより五年先だつ和銅四年(七一一)に、上野国多胡郡を設置したさいには、「羊」という人物に多胡郡を給すと明記してある(多胡碑)。郡が成立するには、範囲と命名のほかに、郡の行政官の任命が必要なのだが、高麗郡設置の場合、この郡を若光に給したかどうか、いっさい不明である。それどころか本人が高麗郡に来たかどうかの記録もない。
先述のように、若光は大磯に上陸したのであるが、宝亀二年に、関東七か国に散居していた高句麗人に武蔵野の一部が下賜されると、若光はその高麗郡の大領(郡長)に任ぜられたので、やがて大磯を去って武蔵高麗郡に赴いた。高麗郡に到着すると、住居を日高町新堀大宮の、今、社殿のある所に定めて、全郡を統率したが、その後幾星霜を経て、某年某月、ついに日本における新封土の高麗の地において逝去した。有為(ゆうい)の才能をもちながら、富貴栄達を願わず、ひたすら郡民の幸福を祈り、一身を犠牲にせられた首長・若光の死を伝え聞いた高麗の郡民は、貴賤・老若の別なくことごとく来って、その死を悲しみ、泣いて尊骸(がい)を葬り、また、霊廟(れいびょう)を建てて、高麗明神とあがめた。このことについては、『高麗神社と高麗郷』に詳記してある。
この伝承については、歴史家のうちには疑念を抱くものが多い。その代表として、小説家でもあり、歴史家でもある坂口安吾の文章を引用しよう。
この系図は、この先の全文がチョン切られているのであるから、この城外に埋めた屍体とは若光らしいと想像されるだけで、若光と断定できるようにはなっていない。また、若光が高麗家の第一祖だということもチョン切られた系図からは判定はできない。その長子は家重から系図が始まるが、家重が高麗家の第二祖だというような番号も系図には示されていないのである。若光の先にも誰かがいたかも知れない。
高麗王若光とは、続日本紀大宝三年四月の条に
『従五位下高麗若光に王姓を与えた』
とあるだけで、彼が高麗郡へ移住したことも、その統率者が若光であったことも、他に記載したものはない。ただ高麗家の系図にあるだけだが、それも前文がチョン切れていて、残った部分から判じられるのは、城外へ埋められた屍体の主は若光らしいが、若光以前のことはともかく全然相わからん、ということである。そして、若光王の没年も相わからない。(「高麗神社の祭の笛」)
しかし、このような見解に反対する意見もある。今井啓一氏は次のようにいう。
当時、中央政府のあったのは畿内でありますから、相模あるいは武蔵の国のそういう小さい出来事まで、いちいち正史には書いておりません。(中略)書いてないからといって、そういう事実がなかったとは言えないのであります。その出来事がたしかにあったということを立証するものは、資料とか遺物であるけれども、資料・遺物というものは、必ずしも全部ととのっておるとは限りません。」(『帰化人と東国』)