2 高麗神社と白鬚(しらひげ)神社

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 高麗神社発行の『高麗神社と高麗郷』所載の高麗氏系図によると、巻頭は虫食いのためわからないが、「これによって(若光死亡のことだろう)、従来の貴賤相集まり、屍(しかばね)を城外に埋め、かつ、神国の例によって、霊廟(れいびよう)を御殿の後山(うしろやま)に建て、高麗明神と崇(あが)む。郡中凶あらば則ちこれを祈るなり。」となっている。
 高麗明神をまつる高麗神社はこうしてできたのである。しかし、その次がわからなくなる。同書の「高麗神社と高麗郷」の項には、このように説明している。
(前略)斎(いつ)かゝる神々は、若光・猿田彦命(みこと)・武内宿禰(すくね)の三柱である。(中略)はじめは高麗王一柱をまつったので、後に他の二柱を合祀したものであろう。(中略)里人の口碑に、高麗王はその髭髪(しはつ)白かりき、故に高麗明神を一に白髭明神と称(とな)へ奉(たてまつ)る。

 そうすると、白髭明神と高麗王とは同一神だということになる。一般的にも、白髭神社の祭神は若光であると伝えられている。ところが、『入間神社誌』所載の高麗神社についての由緒(ゆいしょ)書を見ると、話がちがってくる。
霊亀二年、武蔵国に高麗郡がおかれたとき、当地に移住した高麗人一、七九九人の首長であった従五位下高麗王若光が、郡中の繁栄を祈るため、日頃崇敬していた猿田彦神・武内宿禰をまつり、白髭明神と称した。若光の没後、故国より扈従(こしょう)の貴賤は遺徳をしのび、霊廟を建て、高麗明神と崇(あが)め、やがて白髭明神に合祀し、高麗大明神と尊称、同郡の総鎮守として庶民の信仰が厚い。

 だんだんわかってきた。高麗明神と白髭明神とは別の神様らしい。
 鶴ヶ島町脚折町の白鬚神社の社伝も同様である。「古老口碑に曰(いわ)く、霊亀年間、高麗人帰化の際、郡中にこの神社を勧請(かんじよう)し、当社はその一つであるという。」(『同書』)
 飯能市原市場の白鬚神社も「当社は霊亀二年本邦来居の高麗人を当地へ移され、高麗郡と称した頃、高麗人の尊信が厚かった猿田彦大神を郡内二十八か所に祭祀し、白鬚明神と称した由。当社もそのひとつであるという。けだし、確とした証拠はない。」(『同書』)
 他に、入間郡に鎮座する白鬚神社二三社の祭神は次の通りである。
猿田彦神のみ        一八社

武内宿禰のみ         二社

猿田彦神・武内宿禰の合祀   二社

不明             一社

 これを見ると、今日では入間郡内にある白鬚神社の祭神は、若光をまつる神社は一社もない。白鬚神社とは、猿田彦神か武内宿禰を祭神とする神社をさすことになる。しかし、この三社の神々は、いずれも白鬚明神としての資格は備わっている。
 若光は、高麗郡創設の時代、すでに七〇才を越えているとみられるから、「高麗王はその髭髪(しはつ)白かりき」というのは当然である。武内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五朝に仕え、官にあること二四四年年令二九五才だというから、長寿の代表者である。猿田彦神は、六万年も生きていたという伝承をもち、その姿はいつも白鬚の翁として現われている。
 この神は、『古事記』や『日本書紀』の伝えるところによると、天孫降臨のさい、ニニギノ命(みこと)がいよいよ天下りしようとすると、天の八衢(やちまた)(天と地の分岐点)に一人の神がいて、上は高天原、下は葦原中国(あしはらのなかつくに)を照らしておったので、天鈿女命(あまのうずめ)にその名を問わせると、それは猿田彦神が、天孫降臨の御前(みまえ)に仕えるためにあらわれたのであった。神の姿は、鼻の長さ七咫(ななあた)(五尺六寸)、背の長さ七尺あまりで、特に眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如く、顔の色は赤酸漿(ほおずき)に似ていると申し上げると、命は天鈿女命(あまのうずめ)に勅して、天孫降臨のことを告げさせると、「われは猿田彦と申して、御先導するためにお迎えしたのです」と答えたという。
 全国の白鬚神社の根本社といわれる滋賀県高島郡高島町にある比良(ひら)明神は、天孫降臨にさいして先導の使命を果したのち、猿田彦神が伊勢国より諸国巡幸してこの地に来たが、琵琶湖の風光をめでて、そのまま鎮座したのだという。今では近江一国の地主神である。
 この神は、天孫降臨の先導役をつとめた関係から、祭礼に神輿先導をつとめることになり、また、塞(さえ)の神と混同して、道祖神または岐神(ふなどのかみ)となった。この二神はいずれも、衢(ちまた)を守る神である。道路の安全を守る神であるから旅行の神である。
 白鬚明神は、若光をはじめ、亡命高句麗人の尊崇する神であるが、どういう縁でこの神を信仰するようになったのであろうか。以下私見を述べると、高句麗人が来日するときは、先ず敦賀津か若狭小浜津に上陸する。敦賀津の場合は陸路七里半峠を越えて琵琶湖北岸に達し、小浜津の場合は九里半峠を越える。いずれも難所である。湖畔の塩津あるいは今津から大津迄は湖上を舟航する。そのさい右岸に見えるのが白鬚神社である。厳島(いつくしま)神社のように、朱の鳥居が湖上に浮んでいる。長旅、大和国に入るにはまだ遠い。このさい、今までの旅路の平安を感謝し、これからの無事を祈念するのは、この旅行の神であったと思われる。こうして白鬚明神が彼らの守護神となったのであろう。
 ちなみに、近江の白鬚神社は、全国の白鬚神社の根本社といわれ、北は青森、西は福岡にわたって数多くの末社をもっているが、いずれも祭神は猿田彦神に統一されている。そして、庶民信仰としては、寿福・武運・縁結びの神として知られている。
 なお、白ヒゲの鬚はアゴヒゲであり、髭はクチヒゲで、髪は頭上のカミである。
 
 白鬚神社の祭神の一柱である武内宿禰は、大和(やまと)朝廷の初期に活躍したと伝えられる人物である。孝元天皇の曽孫で、成務天皇のとき大臣(おおおみ)となり、仲哀天皇に従って熊襲(くまそ)を征伐し、天皇の崩後、神功(じんぐう)皇后を助けて新羅に遠征、また、幼帝応神天皇を補佐して偉功があったと伝えられている。新羅遠征の話は、神功皇后の三韓征伐として有名だが、神話的な物語で、そのまま史実とすることはできないようである。神功皇后の物語は四世紀末のことだと推定されているが、四世紀末から五世紀初めにかけては、日本軍の朝鮮半島への進出が最も盛んな時代であったから、皇后が半島遠征に参加することがあったかも知れないが、半島側の記録にも神功皇后の新羅遠征のことは伝えていない。金錫享(キムソクヒョン)氏の『古代朝日関係史』はこう書いている。「日本の学者でさえもあきれるほどの、この神功皇后説話が、純然たる造作であり、話の筋は、後の七世紀後半、百済滅亡当時、斉明女帝が新羅・唐の連合軍に対して、軍をひきいて北九州まで出かけた歴史的事実から出てきたものである。」と皇后の三韓征伐にはきびしい批判を加えている。しかしこのことは、たとえ事実であろうとも、高句麗人が守護神として尊崇しない理由にはならないと思われる。次に、宿禰と渡来人との深い関係については、『日本書紀』応神天皇紀に韓人(からひと)池の記事がある。
七年秋九月、高麗人・百済人・任那(みまな)人・新羅人、ともに来朝(まいおもむ)けり。時に、武内宿禰に命(みことのり)して、諸(もろもろ)の韓人(からびと)等を率いて、池を作らしむ。因りて池を名ずけて韓人池(からびとのいけ)と号(い)う。

 これは、古代には灌漑用の池を造るには、渡来人の進んだ土木技術を採用したのであるが、宿禰が彼らを引率する地位にあったからであろう。
 また、宿禰自身ではないが、その子孫と称する有力氏族、葛城(かつらぎ)・紀(き)・波多(はた)・蘇我(そが)・平群(へぐり)・的(いくわ)の六氏族が、四世紀後半(神功皇后の後半から仁徳天皇の時代にかけて)朝鮮への派遣将軍となり、朝鮮支配の上で大きな功績を残したのであった(井上秀雄氏『古代朝鮮』)。
 なお、高句麗渡来人の、日本において信頼する氏族としては、蘇我氏一族ではなかっただろうか。蘇我氏は武内宿禰の子孫と称し、帰化系氏族と結ぶ進歩的な経済官僚である上に、その外交政策は遠交近攻策をとっており、新羅を攻撃するために、高句麗と手を結ぼうとしていたからである。(門脇禎二氏『飛鳥』)。
 蘇我氏と渡来人とが緊密に結ばれた原因を他に挙げてみる。
(1) 蘇我氏の系図は次のようである。
 武内宿禰―石川宿禰―満智(まち)―韓子(からこ)―高麗(こま)―稲目―馬子―蝦夷(えみし)―入鹿(いるか)
 権勢を誇った稲目の父は高麗であり、祖父は韓子である。韓子の母は蕃女(となりのくにのめ)であるという。
(2) 蘇我大臣稲目宿禰は大和の高市郡(たけちのこおり)に韓人(からびと)の大身狭屯倉(おおむさのみやけ)、高麗人(※註1)の小身狭屯倉(こむさのみやけ)をおいた。そして、小身狭には高麗人を田部(たべ)(※註2)にした。(『日本書紀』欽明天皇十六年)。
   〔註〕
(1) 朝廷直轄領、収穫した稲米を蓄える倉庫、転じて、朝廷の直轄領のこと。

(2) 屯倉の耕作に従事した農民のこと。

 以上、武内宿禰や、その子孫と称する蘇我氏について、高句麗渡来人に対する事績を列挙してみたが、これはもとより、宿禰が白鬚神社の祭神となった理由についてのきめ手ではない。これはひとつの参考史料である。