3 若光以後の系譜

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 「高麗氏系図」によると、若光の死後は、長子家重が家を継いだが、その後、子々孫々連綿として家系が継がれ、当代まで五九代つづいてきた。そのうち特記すべき事柄だけを次に記すことにする。
 二三代麗純 役行者(小角)(えんのぎょうじゃ(おずぬ))の信者となり、修行して山伏となる。本山派の別当である。その弟、禅阿(行者名)は、足利にある鶏足(けいそく)寺の政所(まんどころ)となった。その弟の慶弁顕学房は、諸国の名山で修行したのち、足利鶏足寺に留まって、大般若経や法華経を書写した。現在、高麗神社の社宝となっている大般若経や法華経は、彼の書写したものだという。
 二六代大宮寺宗純のとき、高麗という姓は、軽々しく名乗ってはいけないので、分家は高麗井と称することにした。
 二七代豊純のとき、今迄は親族・重臣とばかり縁組をしていたが、「深き子細(しさい)あり」て、初めて日本人である駿河の岩木僧都(そうず)道暁の娘を嫁にした。このことによって源氏の縁者となったという。そうすると、高麗家はこれまで純粋の高句麗系血統を守ってきたわけである。誇り高い渡来人の血統であった。
 「深き子細」というのは、高麗氏は、鎌倉幕府執権北条泰時の時代には、丹党に属する武士として、源家と縁を結ぶのが有利であったのだろうか。
 二八代永純に至って、正元元年(一二五九)一一月八日に大風が吹き荒れ、折悪しく出火して、系図や、高句麗持参の宝物を大半焼失した。そこで、一族老臣の高・新井・本所・新(あたらし)・神田・中山・福泉・吉川・丘登・・大野・加藤・芝木等、高麗氏一族がすべて集まって、諸家の記録を調べて、系図を書きなおした。それでも、不詳の箇所があった。
 三〇代多門坊行仙 正安三年(一三〇一)、大峯修行して、多門房という号を賜わった。この時代から戦陣に参加するようになった。
 しかし、武士化した高麗氏一族の行仙の弟、三郎行持と四郎行勝は、鎌倉北条氏に仕え、正慶二年(一三三三)鎌倉東勝寺で、新田義貞の軍と戦い、討死した。
 三二代多門房行高は、建武四年(一三三七)一九才のとき、新田義興の招きに応じ、鎌倉を攻め落す。そのとき疵(きず)を負い家に帰る。観応二年(一三五一)足利直(ただ)義の招きに応じ、一八〇余人を率いて、薩〓(さった)山の御陣に馳せ参じたが、敗軍して逃げ帰った。文和元年(一三五三)新田義興の招きに応じ、諸所で合戦する。同三年、軍利あらず義興・義治等が河村城へ逃れた時、縁を尋ねて上州藤岡に隠れていたが、延文二年(一三五七)鎌倉に降を乞い、許されて家に帰る。嘉慶二年(一三八八)死に臨んで遺言する。「わが家は修行者である。以後、子々代々、何事があっても必らず武士の行いをなすなかれ。」と堅く戒めて卒した。
 弟の兵庫介は兄と同じく、宮方に参じたが、文和元年武蔵野で戦い功を挙げたが、鎌倉に攻め入ったとき、流れ矢に当って死亡した。二八才であった。
 明治になって、五五代大宮寺梅本坊明純は復飾して高麗米具美(めぐみ)と改め、以後、現在の五九代高麗澄雄氏に至っておる。実に悠久一三〇〇余年間、連綿として一系を継承している。そして、一度は武門に参入したが、歴代高麗神社の宮司として、祖神を守りつづけている。