高倉福信
渡来人のうちでは栄達の筆頭にあげられる福信については、『続日本紀』桓武天皇延暦八年の条に詳記されているから、この記事によって略記することにする。
福信は武蔵国高麗郡の人で、本姓は背奈(せな)である。その祖福徳は、唐将李勣(せき)(※註1)の平壌攻撃に参加し、その後、日本に来帰して武蔵国に住んでいた。福信はその孫である。少年のとき伯父の背奈行文に従って都に上った。石上(いそのかみ)の路上で友達と相撲をとって遊んでいたが、なかなか上手で敵(かな)う相手がいなかった。このことが宮中の話題になって、召し使われることになった。そして内竪(ないじゅ)所(※註2)に仕えた。これがきっかけとなって、初め右衛士(※註3)の大志(さかん)(※註4)に任ぜられ、次いで昇任して外(げ)従五位下を授けられ、春宮(とうぐう)(皇太子宮殿)の亮(すけ)(次官)になった。聖武天皇の御恩を受けて、天平勝宝(七四九―七五六)の初め従四位紫微(しび)の少弼(ひつ)(官名)(※註5)に任ぜられた。そして、背奈を改名して、高麗朝臣(あそん)(尊称)を賜わり信部(※註6)の大輔(すけ)に遷された。天平神護元年(七六五)従三位を授けられ、のち造宮卿(大臣の位)(※註7)を拝し、兼ねて、武蔵・近江両国の守(かみ)(長官)に任ぜられた。宝亀一〇年(七七九)上書して、「私は聖化に投じてから久しくなっております。新しく載いた朝臣(あそん)という姓(かばね)は分に過ぎて有難いと思いますが、古くからいわれている高麗という苗字は除かれていません。伏して願わくは、高麗を高倉と替えていただきたいと思います。」と申し上げたところ、天皇から御許しがあった。天応元年(七八一)弾正の尹(いん)(弾正台(※註8)の長官)となり、延暦二年(七八三)に兼ねて、武蔵の守(かみ)であった。延暦四年(七八五)表(ひょう)(文書)をたてまつって辞職を願い、散位(さんに)(位はそのままで官職はない)で、第(てい)(邸宅)へ帰った。薨じたときは八一才であった。
〔註〕
(1) 唐将李勣 高句麗滅亡に先立って、国内に内紛があって、背奈福徳一派は唐軍に参加して、母国を攻撃したらしい。
(2) 内竪所 内竪は、宮中の走り使いをする童子。その仕事をする所が内竪所。
(3) 御所を警衛する兵士。左右あり、定員六百人。
(4) 下級の役人。大志と少志とがある。
(5) 光明皇后・孝謙天皇の君寵(くんちょう)によって、専横をきわみた藤原仲麻呂(恵美押勝)が、皇后宮職(しき)を改めて紫微(しび)中台とし、紫微内相一人をおいて、内外の兵事をつかさどらせ、押勝が自分で内相になった。ランクの上では大臣にならび、全国の武官の上に立ち、軍事権を一手に握った。福信はその下で武官の長官となった。
(6) 中務(なかつかさ)省を改名した役所。天皇の側近に居て、詔勅の宣下や、叙位のことなどをつかさどる。
(7) 宮殿造営のために設けられた役所の長官。
(8) 内外の非違を糺弾し、風俗を粛正する役所。
この時代は、政局めまぐるしく変転して、今日の権臣が明日は逆賊となるという混迷した世の中で、福信はいずれの権臣のもとにあっても失脚することなく、延暦八年(七九八)に八一才で天寿を全うすることができた。これは、単に要領のよさを示すものではあるまい。自分の行動の一貫性を主張できる律令制高級官僚の誠実さのゆえであろうか。
高倉石麻呂
高倉福信の子である。『続日本紀』光仁天皇の宝亀四年(七七三)二月二七日の条に、次のように記されている。
造宮卿従三位高麗の朝臣福信、楊梅宮(やまもものみや)を造作することを専知す。ここに至って宮成る。その男、石麻呂に従五位下を授く。この日天皇、楊梅宮に遷(うつ)り居ます。
つまり、福信が楊梅宮建築に、他の仕事をすてて、もっぱら専念したので、立派な宮殿が出来上ったから、そのお祝いとして、その子石麻呂に位を授けるということである。
彼は、治部少輔・中務少輔・美作介の役職に就いている。
背奈福徳
福信の祖父。『新選姓氏録』によると、「高麗朝臣は、高句麗王好台七世孫の延興王より出づ」と記されている。「好台」とは「好太王」すなわち国王広開土王のことであるから、背奈氏もまた王族である。彼は唐将李勣(せき)の配下となって母国高句麗の首都平壌を陥落させたのち、日本へ来て、武蔵国に住んだという。
背奈行文
福徳の子、福信の伯父である。その時代のすぐれた学者の一人で、深く学芸の奥義を究め、師範としての学問があるため、明経博士となり、従五位下、大学助に任ぜられた。詩歌にもすぐれ、『万葉集』に次の一首がある。
侫人(ねじけびと)(※註1)を謗(そし)れる歌
奈良山の児手柏(このてがしわ)(※註2)の両面(ふたおも)(※註3)にかにもかくにも侫人の徒(とも)
(奈良山の児手柏が両面であるように、ああもいい、こうもいい、侫人のやからよ)
〔註〕
(1) 心がまっすぐでなく、へつらう人。
(2) 葉は表裏の別なく、扁平で、その若葉が幼児の掌(て)を立てたようになっている。
(3) この柏の葉の表裏いずれとも定めにくいことから、両面・両様あること。
この歌は、さすが明経博士背奈行文らしく、ねじけたおべっかは大嫌いだと宣言した歌である。
彼は漢詩にも秀れた教養を示し、わが国最古の漢詩集である『懐風藻』に、二首掲載されている。「新羅の客に宴(うたげ)す」と「禊飲詔(けいいんみことのり)に応ず」である。禊飲とは、悪をはらう祭りを行う酒宴のことである。
高麗大山
大山も秀れた官僚であり、語学を生かした外交官であった。『続日本紀』でその略歴をたどってみると、
天平勝宝五年(七五三)九月二四日、遣唐使判官(ほうがん)に任ぜられた。大使は藤原清河、副使は大伴古麻呂(おおとものこまろ)と吉備真備(きびまきび)、その次の判官は大山のほかに大伴御笠(みかさ)・布勢人主(ふせひとぬし)、他一名の四人であった。四隻の船で渡唐したが、無事帰還したのは、三隻二二二名であった。大使清河の乗る第一船は、帰航中、暴風雨のため安南の驩州(かんしゅう)へ漂着したが、土人のため七〇余人が害せられて、清河と、三六年ぶりに帰国しようとした阿倍仲麻呂ら一〇数人が、身をもって唐へ逃れ帰った。彼らは次の遣唐使が来るまで唐朝に仕えていたが、次回、宝亀六年(七七五)の遣唐船が着いたときには、両人とも死亡していて、清河の娘だけが帰国したという。
天平勝宝六年(七五四)判官巨万朝臣(こまあそん)大山に従五位を授く、とあるから、彼の乗船は難破することもなく、遣唐使の役目を無事に果したことへの褒賞であろう。
天平宝字元年(七五七)二月八日には、造東大寺司次官に任ぜられている。東大寺建立に彼の知識と技能が見こまれたのであろう。
天平宝字五年(七六一)一〇月二二日武蔵の介となった。それから二一日しかたってないのに、遣高麗使となった。ただし、このときの高麗は渤海国を言っているのである。
天平宝字六年(七六二)一〇月一日「わが大使、高麗朝臣大山、去る日、船上にて病いに臥し、左利翼の津(不詳)に到って卒す」とあり。海上渡航するのは、生命がけの使命であったのである。
同年一二月一一日 大使大山の功労に報いるために、正五位下を追贈された。
高麗広山
天平宝字六年(七六二)四月一七日、正六位上高麗ノ朝臣広山は遣唐使の副使となって渡唐する。
同八年(七六四)正月七日に外従五位下を授けられた。
渡来系の人々は語学が達者であるし、教養も高いから、外交官として功績をあげたのである。